憂暮れのムラサキ

夜にポツリと日々のつらつらを書き綴る村崎の戯言。全部あくまで個人の見解。

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続く日常と、その中で…(再掲)

もう7月に差し掛かろうという夜。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 

2021年も、もう半年経った街並みは 何故か変わりなくスーツの方も居れば飲食店の方も、しっかりお仕事されていました。

 

人々が支え合って世の中が動いているということを、知っているつもりでも、どこかでそれを当たり前の事として気にも留めないでいた自分が浮き彫りになった気がしました。

皆さんの日常の中で、すれ違う人の顔やそこにある風景の変化に気がつける人は、どのくらい居るんでしょうか。


思い出とともに有る場所は、きっと無くなったら気がつくんじゃないかとは、思いますが、通勤通学の何気ない、建物とか車窓から見える物だったりに目を向けて、変化が分かるんでしょうか?

結局は、同じ活動圏内でベルトコンベアーの様に日常を消化していたんじゃないかと、僕は知らされたような気がしました。

 

僕が日々心血を注ぐ演劇には、そういった日々の一コマの一等特別な”普通”を切り取ることもできます。
ただ、こういった日常を見つめることのできる目、その時の空気や景色を記憶する感受性などを磨くことを怠ってた自分には、そういった新鮮な感動を創り出せなくなってたのかなと思いました。

 

日々に対する、諦めや苦しみ、そういった悲嘆に暮れた心象が僕の作品には目立ちますが、そこに在るありふれた日常がそれを下支えするよう心掛けてきた事でした。
だからこそ、自分のくすみを感じさせられて、本当に愕然としてしまいました。

 

新たな局面で齷齪する心の余裕の無さに加えて、改めて自分の見つめる世界への鮮明さを取り戻さねばと、引き締まる出来事でした。
 

哲学書なんか読むな。って話(再掲)

皆様いかがお過ごしでしたでしょうか。

最近、ランニングを始めましてヘロヘロな村崎です。そんな今回は演劇と哲学のお話。

 

未熟な哲学≒未完な哲学

 

演劇をする人の中で、特にアート志向やコンテンポラリー志向の方の中に哲学書を読んでもっと思想を形成する。と言っているのを何度か耳にした事がある。


確かに、様々な主義が乱立する現代なので、その主義主張の本流や変遷を学ぶのも悪いことではないと思うし、少なからず命題について勉強はするべきだ。様々な哲学者が多様な哲学を説き、その影響を数えきれない人が受けているだろう。

 

ただ、私は演劇における哲学的公正さが必要ではないかと思っている。というよりも、クレバーで居る為に"平熱のスタンス"を心掛けるべきだと日頃から取り組んでいる。この理由は後に語るが、哲学の先駆者たちと精神世界で対峙する時の心構えとでも思って、頭の隅にでも置いておいてほしい。

 

さて、前置きは済んだのでここから持論を繰り出して行くのだが…大前提として、まず、哲学は頭(思考)の毒だと言う事を定義しておきたい。
その上で、哲学書を読んでしまう事で陥る大きな罠について話す事から始めようと思う。

 

哲学書は、必ずしも哲学者が自らペンを取り書き綴った物とは限らないと言う事を知っておくことが必要だと思う。例えば、ギリシアの哲学者達はその門徒が多く弟子たちが思想を纏めた物を編集したりする事もある。或いは、哲学者が書いたものを翻訳する上で解釈が変化すると言うことが起こる場合もある。
様々なフィルターを介した後に世に出る訳であり、誰かの故意によって曲折してしまう事だってありうる。
兎にも角にも、純然たる哲学者の言葉は、よほど懇切丁寧に確証を示し、注釈で
"本人はこう言っていた"とでも書いていてくれなければ、信用するべきではない。

 

だが、仮に本人の思想だと確証が得られたとて安心するなかれ、哲学書というのは一種の布教活動や洗脳を目的としたバックグラウンドを持つこともある。

故に、思考を確立し独自の目線を有するまで固まっていない未熟な思考は、容易に洗脳の煽りを受けてしまうことがある上、それなりに考え抜き固めた思考であっても熟成させようと手を出すには結構ハードな刺激であるのは違いない。

このように下手に思想の濃い哲学を取り入れると逆に取り込まれるのが落ちであると言えるだろう。

 

次に、哲学の指向性と自身の立場の位置づけについて話していく。
哲学とは、あくまでもものさしであり、何をはかりたくて使うのかを用途と合わせて考える必要があると思う。
なので魚屋さんの勘定に尺間法は要らないし、土地代を重量で計算することはないのと同じで、主義主張に合わせた指向性を持ち要らねば、哲学書に書かれた様式に当てはめただけで答えを導き出せないだけの理論になってしまうかもしれない。
こういった事を避け、哲学の効力を引き出す為に最低限度、自身が向く方向と指すべき目的地の設定を怠らないことが必要だ。


補足して言うなれば、それは声を大にして明言しておく方が良いだろう。その方が途中、方向転換や軌道修正で向かう先にズレが生じても道程を明確に開示していれば、聞き手はその変遷を追って着いてきてくれるはずだ。
こうした確実な方向性を持った製作に取り組める準備を済ませることが、哲学書を手に取るよりも先に必要だろう。

 

では、最後に、哲学書を僕が読むなと強く言う理由を話そうと思う。


それは以前にも綴った僕の思想とも深く関わっているのだが、私達が世間の隅々にまで目を配って生きているかといえば、そうではないからだ。
だからといって、世界規模でその時勢に詳しくなれ、などとは1ミリたりとも思っていない。それを自覚することは大切だとは思っているが、それと同時に知らないのが悪ではないと思っている。
それだけ世界は哲学書の記された頃より数段に拡張をしてきたということも、僕は感じているし、我々を取り巻く半径数メートルの世界を大事にする気持ちも痛いほど分かってしまう。
ただ、哲学書を読んでしまう事で、より内向的な世界で遠い過去の漠然とした不安を莫大な時間を使ってねじ伏せて来た人々の言葉に毒されてしまうのが嫌なのだ。だから、僕は思う。

僕たちには、そんな立派な思想も、哲学も、受け入れられる自己が完成していないんじゃないだろうか?
僕たちには、まだ座して哲学書を読み更けるほど、言葉を交えて居ないんじゃないだろうか?
だから、"まだ"哲学書なんか読むな。読んでアナタの思考が消えてしまう前に…

 

書を捨てて、街へ出よう

では、また。
 

空白のように、生きてきた。(再掲)

どうも、こんにちは。

こうしてほぼ毎日綴っていれば、少なからず毎記事ご覧になって頂けている方も

居るのでしょうか・・・?

 

昨日の記事は自戒も含めた宣伝活動の話をしましたが

今回はその中でも挙げた演劇観みたいなものをお話しようと思います。

 

演劇をしていて思うこと。

 

演劇をしているっていう方が身近にいるという人が土地柄多い京都ですが、それでも演劇をしている事を物珍しく思われるのは結構あります。

演劇と言っても、裾野も広いので大衆演劇商業演劇、そして僕らが盛りたてんとしている小劇場演劇。様々な形態の演劇があって、それをお客さん方は一緒くたにして「演劇」と括ってらっしゃいます。

 

前回と言ってることが被ってるじゃん。と思ったでしょ?

 

でも実際は、昨日は関係者、内部の人間で演劇って物を語るときの話で、今日のは、お客さん側のお話なんです・・・。

そう、内外共に演劇っていっても広義を示しすぎて合流地点を見いだせないって事になるんですね。これを大阪では、梅田現象と言ったら笑って頂けましたが…。

皆さんはどうですか?

 

まあカテゴリーの話なので、映画が好き、ドラマが好きみたいなのと同じなんですが、こんな風に言っても相手は「そうなんだ、どんなのが好きなの?」と口にしてくれることでしょう。そうすれば小さな区分で話ができる。ホラー映画が好きとか、恋愛ドラマが好きとかね。それが演劇だとバラけちゃってるんですよ

 

試しに僕が思う限りの演劇の区分を出してみようと思います。

 

喜劇・悲劇・不条理演劇・コンテンポラリー・高校演劇・エンターテイメント

アンダーグラウンド・ハードコア・時代劇…etc.

 

まだあるんでしょうが、こんなものでしょうか?

もっと詳細な区分もありますし、喜劇・悲劇辺りはまだまだ広義ですよね。

 

だから、演劇は後発的な区分では語れない部分があるんです。

映画然り、ドラマ然り、ジャンルが分かれば選べますし、原作があれば少々のことでは内容は変わらないはずですよね?

 

しかし演劇には、先発的なメッセージがある場合があります。

自分の身を置く場所なだけあって、小劇場メインな話になってしまうのですが

小劇場などの若手が執筆して演出する作品には、メッセージが含まれていて、それが物語の根幹に大きく存在をしています。

ですので、小劇場の演劇作品には多かれ少なかれメッセージ性があるんですが…

内容に大きく絡む性質からか、ネタバレを恐れて隠匿されることがほとんどです。

そうなると、大半の宣伝の常套句が…

 

見れば分かる・内容が濃い・俺は、私はこの作品好き

 

みたいになるんですよねw

分かるけど、本当にそう言うしか無いのかな…

 

ここだけの話。内情を言うと台本が書き上がってないからの場合がほとんどなんですがね。(ボソッ

 

まあ、こんな長い前置きは置いておいて

僕はメッセージについてここに赤裸々に?綴っていこうかと思います。

 

「人間の謳歌と社会俯瞰」という演劇観

 

僕の演劇観は、見て字のとおりなんですが…。

だから何やねん。って、なっちゃいますよね。

 

演劇ってものに関して、僕は様々なものを教わり、少なからず観劇をしたりもしましたが、何気なしに目に入った演劇の本でその今までの体験以上の”しっくり感”を得てしまったんですね。その文章というのが…

 

演劇の最終的な命題は「人間」である。

 

というものなんです。

これって本当にそうだなって思うんです。

人間が演劇をしてるわけじゃないですか、今のところは。つまりは演劇をしている者は絶対「人間」というテーマにぶつかる訳ですよ。じゃあ、一番の命題というのは人間に他ならないわけで、結局は人間を表現しているんじゃないかなと。

 

この本を古書堂みたいなところの軒先で、小一時間読みふけってしまった僕は、この瞬間に、人間の素体を活かし讃えようと決めました。

 

僕の作品をまだ多くの人が観ていない状況なので、僕の執筆作品を折りを見て、投稿しようかとも思っていますので、気になった方は読んでいただければ良いのですが、僕の描く物語の人物は大抵、穢れなく純真な少年少女か、汚濁に塗れ煤けた青年の姿です。もちろん中年や老年も登場しますが、中年や老年が主人公で描けるほどの人生経験が僕にはないと思ってしまうので、書いたことはありません。

 

そして、そこに僕の思想が共存して行くことでストーリーが生まれます。

 

それが後半部分、社会俯瞰という考え方です。僕たちは日常を必死に生きて疲弊しその毎日を通り過ぎる車窓の景色のごとく傍観しています。そんな事にいちいち気を止めていたら精神がもたない程に切迫してるんですね。

 

だから、僕たちは世間や社会に対して、常に盲目的だと考えているんです。

僕たちには世間の問題や社会の情勢など、自身に牙を剥かない限り明日の業務以上に重要なことではないのです。明日生きていけるかもわからない人間に未来を語ることが難しいように、明日以降も普通に生きているという根拠のない自信を持っている人間に、「死」や「自殺」という問題が想像もつかないのも当たり前です。

 

人間は愚かで穢い生き物へとなっていく、それを善とも悪とも私達には言えないしそのような事に、僕たちは興味を示して生きていないのに、それに直面したときは一等心を悩ませてしまったり、それを恥じて他人を貶めたり、苦しめたりする。

僕らの問題は常に僕らの目には止まらないところで生まれて、僕らの目の前に大きな怪物のようになってから、やってきてしまう。

 

だから、せめて僕の演劇では人間のむき出しの穢い部分と愚かさに目を背けず、目の前の小さな問題について考えてほしい、傷ついても、心がかき回されても目を離さず、そんな時間にしてほしい。という想いで作品を作っています。

 

もちろん、作品ごとに扱う問題は変わりますし、その時に表現したいことも様々に成ります。ただ、根幹にはいつもこの考えがあります。

 

人間の美醜も含めた「穢れた姿」を目の当たりにした時、それぞれが本当に立ち向かうべき問題が浮き彫りになる。と。

 

今日は、沢山書き殴ってしまいましたが、この辺で終わります。

 

では、また。

じんわりと溶けて、染み入るような気持ちで。(再掲)

皆様、体調はいかがですか?
僕は絶賛体調が急降下していますよ←
急な雨で頭が割れそうなほどの痛みに襲われながら
繊細でゲキ弱な身体と精神を引こずって、僕は今日も生きています。

そんな今日は、少しだけ演劇やってる人っぽく話をしてみよっかな。

”僕たちは、演劇をやっています”

そんな一文から始まる演劇があってもいいなと思う。

この「演劇」って言葉、すごく曖昧ですよね…。

やっている僕らだって、同じ演劇って言葉が表現することの振れ幅に
惑わされますからね…(汗)
この演劇って言葉は、人生とも言いかえられそうなほどに多様性を持っているので、これは演劇じゃない、なんてことはかんたんには言えないもので。
でも、その違いを巡ってギクシャクしたり、同じ命題でも答えの導き方で有り様は180度…なんてことも沢山見かけます。各々の人生観が反映されている作品には、その人の歩みが確実に見えてくるわけですね。

こうして、演劇という言葉の多様性で衝突することもしばしば、その棲み分け方がはっきりできていないのも問題なのですが、それ以上に演劇の練度といいますか。真贋の線引きが難しいという点も一つ大きな問題なのではないでしょうか。

演劇の保証人はどこにも居ない?

演劇の真贋が曖昧になる理由として、アマチュアとプロの境が明確にはないために名乗った者勝ちな部分があり、演劇を始めることに対する敷居の低さも重なって、専門的知識は無くとも、演劇の公演を興行として行うことは可能だという点が挙げられる。このように、演劇人って言うのは簡単だけど、演劇を行う上で守るべきだという規約や、虎の巻と言ったものはないので、下積みが長かろうと、ぽっと出であろうと無関係に作品を世の中に排出できてしまう。

だからこそ、発信をしない閉鎖的な小劇場演劇では、真贋、もとい面白いかどうかの判断というのは、正直…かなり難しい。

そして、役者はフットワークが軽いのに、劇団同士は大概絡まない。
横の繋がりという奴も、大抵が身内の範疇を超えず、一見新鮮だった繋がりも長く一新されず内輪感が生まれてしまう。劇評を書いても専門的な後ろ盾が存在しない以上、ただのイチャモンなのか、それとも専門的見解なのかは計り知れないので、世間の声を頼りにすることもできない。
もちろん、多くの観客の声を獲得できていれば、相対的な判断ができるが小劇場という規模のみで考えれば客席が40用意できれば万々歳で、その中で何名が感想を共有してくれるだろう、それが全3ステージだとして、前日の演目の評判を聞きつけ翌日行動してくれる方が何人居るか…。考えを巡らせても、事前に来場を確約することができない以上、新規のお客さんを引き込んで公演日の予定を開けておいてもらう必要がある。

では、その一作品にとらわれず、根幹的な部分の自身や団体の宣伝の場を設けてみてはどうだろうか?

交流会や、アフタートークなどのハードルをもっと下げ、発言に関しても中立的な立場の人間を設けてもっと盛んに行えば良いと思う。
そうすることで演劇が観客の身近で、参画しやすいコンテンツだと思ってもらえるんじゃないだろうか。
そうした普段の製作過程や、思考する姿を世間にオープンにしていくことで製作者を知ってもらい、団体を知ってもらい、果ては作り出す世界を共に待ち望んでもらえるような関係を作り上げることが必要なのではないかと思った。

演劇は日常の中から出てきて、なんだか遠くへ行ってしまったように感じられている。
だから、近くに居るよって、ここに居るからねって言わなくちゃいけないと思う。
観客の日々にじんわり溶けて、染み入るような気持ちで発信をしなくちゃいけないなぁ…

と言うわけで、今日はこの辺で。

では、また。

現状、ニート≧フリーター。ゆくゆくは…(再掲)

今日は、少しだけ自分の現状について赤裸々に語ることにする。

フリーターが夢を追わなくなったら、何なのか。

 

僕は、駆け出しの劇団主宰の傍ら、フリーランスで脚本と演出を主とした活動をしている。
現在は、残念ながらお仕事のご依頼が途切れず…とはいかず、自身の活動のために書き下ろしの台本を書き、演出をつけるのが専らである。僕がコネクションと言ったものに関して慎重派で消極的な事も災いして、作家活動における信頼をどこにも築けていないのが原因なのかもしれない。
ただ、そんな状況では無一文になってしまうから、生きるためにと全く関係のない職種のアルバイトをしていたりした。もちろん、興行の収入が団員の生活を賄えるようになるのは、相当の努力と結果を出し続ける必要があり、そこにすぐ到れるとは思っていないが。ただ、現状の芸術活動に対するネガティブイメージと、軽視に晒され心折れるものが多いのも経験上よく知っているのだ。ただ…

「それでも、生きねばならない」

そういって、夢を辞退するもの。あるいは趣味の程度に押し込めてしまうもの。
創作活動を優先して困窮する芸術家たちが、結局人生の多くの時間をアルバイトに使う事になり、大成することもなくフェードアウトしていく。

僕は両親の応援で少しだけ金銭面で助力を得られたことがあり、大学在学中には、創作活動や演劇の勉強にほとんどの時間を使わせてもらえたが、大学を卒業してからは自立できるほどの稼ぎを作り出せず、親のスネをかじるニート同然に成り下がってしまった。

というのも、家賃や奨学金の返済を全て支払える稼ぎはなく、生活の中での必要経費を、日々の中でこせこせと支払い、なんとか並以下のギリギリな生活をしながら、創作の時間に割いている。

本当にそれで良いのか。そんな事はもうわからなくなっている。
就職をすることをはなから考えず、フリーランスになることを決め、現状どこでもその関係の仕事はしていない。

四半世紀生きて、世間から「もう、夢を見るな」とでも言われているような心持ちだった。
僕たちは演劇という場所に身をおいているのに、演劇はお金にならないというレッテルを誰も打開しようとはしないでいる。成功者ですら足元のグラグラしている業界で、後続がそれを恨めしく見つめ控えている。それで、演劇が衰退していっても良いんだろうか?

お金にがめつい。と、あるアンケートで見かけたことがある。
僕はそれに対して「当たり前だろ」と言いたくなった。確かに人々の目が肥え、映画、ドラマと肩を並べたクオリティーで無ければ文句を言われる時代なのだから、その言葉は真っ当なのかもしれない。しかし、それは暗に「お金をもっと掛けていなければ、作品は評価に値しない」なんて事を口にしているのも同じじゃなかろうか。

映画には膨大な制作費が費やされている。それを獲得するために奔走する人間の数も両手では足りないかもしれない。ドラマだってそうだ、ワンクールの視聴率が広告宣伝費などにダイレクトに響くのだから、それなりの資金とそれなりの時間がかかっている。しかも、世に出ればそれは波及的に宣伝効果が巻き起こり、二次的、三次的な収入ができる仕組みなのだ。

そこが演劇には大きなハードルになる。
大劇場、商業といった演劇はそれなりに大きなバックがあり、それによる資金を元手に活動をすることができる。だが、中小劇団はそのバックがない上に、慢性的に時間を他の事に奪われている。それでも、それを本業に頑張っているものが更に少数いて、そいつらはニート、フリーターといった不本意な称号を与えられて、ジリ貧で生きている。

そんな者たちが、必死に捻り出したお金で小劇場は成り立っている。
正直、脚本一本書くだけでも命削る思いなのに、それをしながら仕事もする事で、日々血反吐を吐きそうな状態なのだ。そして、演出家は日々の時間を思考する時間に割かねばならない。そういった時間を経て生まれる作品があることを、できれば多くの人に知ってもらいたい。

長くなったが、僕らは命の時間を演劇に注いで、そうやって一つ一つの作品を作っている。
そこにかける時間を、納得の行くものにしたいために生活も削っている。
正直、ジリ貧どころではないのだ。それでも、演劇をしたいと言って頑張っている若者に世間は冷たい。アルバイトでは冷遇されることもある。結果として作品が残ったりすれば話は変わるのかもしれないが、僕らの芸術はふっと現れて、跡形もなく消えてしまうことが大きな魅力である以上。再演はすれど、形としてなにか残すことはできないのである。

その価値に多くの人が評価を持てることを祈って…

今日はこのあたりにします。
では、また。

生き辛いともがく日々に、自由な夜を。(再掲)

どうも初めまして、或いはこんにちは。
そして、ページを開いていただきありがとうございます。
村崎逞(むらさき たくま)です!

前回言った通り、今回は”げんポケ”について綴ってゆこうかと思います。

生き辛い世の中に揉まれて

僕はすごく”変わっている”らしい。
確かに、振り返れば偏屈なやつだったな、とか。傾奇者だったな、などと客観視できる事もあるかもしれない。
でも、変わっているっていうのはなんだか不愉快な気持ちになる。
もちろん、この世界の中にいろんな人がいて、少数派も存在する。
だからこそ、多数派が”普通”の価値観のように扱われてしまう。
でも、そういった事で少数派が傷をつけられて良いということはないはずだ。
もちろん不勉強で、僕も少数派の方を不快にしたことがあった。
だからこそ、勉強をしようという気持ちにもなり、理解を深めることができたりした。
しかし、この世の中には一般論がやはりあって、そこについていけない者に厳しい。
ある程度の努力とは別に、結果が出なければやはりそれを評価できないのも分かるし、
そうした事を乗り越えていくことによって成長すると言われるのも分かる。

だが、その人を否定してしまって、その人の努力や苦労はどう報われるのだろうか?
僕たちは、ただでさえ生き辛い世の中で、居場所を探している。
それぞれの思い思いの夢を描いて、その夢に向かって生きている人だっている。
夢を語る事はしやすい世の中になったと思うし、実現をする人物が増えてきてる。
ただ、やはり一般論に当てはめられると駆け出しで齷齪している人たちの人権は無いに等しい。

僕たちは、生き辛い世の中のもっと生き辛い世界に閉じ込められてしまっている。

そんな時に、幻創Pocketの立ち上げを決意しました。
社会の中で大きく得体のしれない、恐怖や圧力の中にいて、自分を殺して生きている人たちがいる。
そんな人たちが、たった一晩でも心を顕にして泣き叫べる時間が、僕が思い描く”夜”の姿だった。
夜は自由になれる時間であり、夜空は精神世界を色濃く映し出すキャンバスであってほしい。
夜になるまで耐え忍んで、夜を楽しみに生きる人々を、幻想的で創造性に溢れた世界に立ち返ってもらいたい。
そうした想いで、僕は創作団体旗揚げを模索し始めたのだ。

模索を初めて一ヶ月ほどの頃。僕はふと、実家近くの小中高と通った道のことを思い出した。
僕の”夜”が芽生えた所と言ってもいいその場所に、僕の心はフラッシュバックしていた。
そういえばここで友達と夜遅くまでだべってたなあとか、ここで自転車で転んで泣きながら帰ったなあとか。
思い返すだけで思い出は溢れてきました。
そして、僕は夜の原風景と出会った。

フラクタル…そして、幻創Pocketが始まった日

旗揚げ公演は「フラクタル」という作品を描き下ろして公演をした。
三人の男女が、夏祭りの夜を、何度も、何度も繰り返すという作品。
この作品は、僕の長編構想の始まりとして長らく考えてきた話をベースに書いた。
そのせいもあってか、この作品は僕の幼少の頃から高校卒業の頃までの実話をなぞっているようにも思える。
そんな風に描こうとは思ってなかったのだが、次第によっていってしまったようだ。
その現実味もあってか、お客さんの中には涙していただける方もいた。

こうして、旗揚げの幕が下りた頃に、僕たち幻創Pocketは静かな産声を上げた。
僕たちを取り囲む世界には、まだ生き辛さを抱えてどこか遠くに行きたいともがき苦しんでいる人がいる。
きっと僕自身もそうなんだと思っているし、もしかしなくてもこれを読んでいただいた方の中にだって居るんじゃないかと思う。

そんな方々に届くよう心から願いつつ、幻創Pocketの紹介はここまで。

では、また。

田舎の少年が演劇に出会って、没頭し、沼にハマっていくまでの話。(再掲)

どうもこんにちは!改めまして、村崎逞(むらさきたくま)と申します。

是非とも以後お見知りおきを〜。

以前にこっそりnoteにて、いくつかの記事を書いていたんですが、
文章や内容が納得いかなくなってしまい、更新が止まっていました。

と、いうのも。

根暗な性格の僕が単に暗い文章を書いてしまうと相乗効果で凄くどんよりした文章になっちゃった感じがしたんですよね…。

という訳で、様々な事を改めて1から、また始めてみようと思います。
今度はTwitter等との連携の設定もして、沢山の方が見てくれるよう発信していきますよ!

さて、心機一転の今回は、僕は何者なのかということをフランクに綴っていこうと思います。

と、その前におさらいとして…

村崎逞が何者なのか

プロフィール
・村崎 逞 (芸名)
・男性
・1995年5月1日生まれ
・24歳
広島県出身
京都造形芸術大学 舞台芸術学科卒業
・趣味はゲーム、映画鑑賞、観劇、食べ歩き
・高校時代は演劇部、中学時代は美術部
・尊敬する人は、寺山修司アルトー上川隆也 (敬称略)
座右の銘は、「歩きながら、考える」

実は、村崎逞っていうのは芸名なんですよw
大学生のときに入試で少しでも印象に残ろうと紫色の服をずっと着ていたんですね。
それで、ムラサキの奴と言ったら分かって頂けたので、それ以降は、村崎です。と言うように統一しました。
元々は広島の普通科進学校に通っていて、演劇にも何の興味もなく、まあ観劇にはそこそこ行くかなっていうぐらいでした。
それがいつの間にかはるばる京都で演劇の専攻で大学を卒業するまでにハマってしまいました。

というのも、両親共、エンタメには結構敏感にアンテナを張っているタイプだったので、ちっちゃい頃から映画館でも自宅でも映画鑑賞は沢山していました。
ただ、それ以上にテレビゲームやオンラインゲームにどっぷりだったので、将来はゲームクリエイターになろうと思っていました。
そんな僕に転機が訪れたのは、中学生の秋口。その少し前におもフラで知ったラーメンズのネタから、小林賢太郎片桐仁の両人にめちゃくちゃハマってしまい、その流れで後藤ひろひと(大王)の「ひーはー」を観に行きました。
それはもう、眼前で人が動き回るのも、その声から伝わる臨場感も衝撃的で

「あ、僕はこういう感動を届けたいんだ・・・」

と体中に電撃が走ったみたいな感覚でした。
今思えば、それよりも前から人前へ出ることは苦手なくせに、いっちょ前に人を楽しませるためのプライドみたいなものは持っていました。
だからこそ、舞台俳優さんたちの躍動といいますか、言葉の力みたいなものに惹かれてしまって、人生で初めて楽しすぎて泣くという経験をしました。

その衝撃を受けてから数年後、高校に進学した際にその高校の演劇部の存在を知り、見学に行ったその日に入部しました。
弱小で、部活動の熱量も正直ヒエヒエだったんですが、そこでの挫折と不完全燃焼が後押しして、京都造形芸術大学への進学が決まりました。
やはりそこでも、熱量やスタンスの違いなどで揉みくしゃになったりしましたが、何故かここまで演劇を続けてこれてしまいました。まあ、好きですからねw

そして、卒業から一年たった今年の8月に、幻創Pocketの旗揚げをしました。
大学時代にも演劇ユニット「ぐるり。」という名前で創作をしていたのですが、団体として劇団員を抱えるというのはこれが初めての体験になりました。
この劇団員というのも、中々に癖の強いメンバー揃いで、衣装制作・被写体・女優と沢山の顔を持つ者、謙虚で多方面に多才なピアノの鬼才、人情味あふれる努力家のリーダー、カエル愛に溢れる蛙頭のクリエイターと正直、何の接点でこうして集まったのかは謎に包まれている団体ですww
なので、演劇はもちろん活動として主軸になりますが、劇団というには多様な方向性を持っているので、創作団体と冠して呼んでいます。

皆さんも親しみを込めて気軽に「げんポケ」と呼んでください。(笑)

一新した初回にしては、割と長く綴ってしまいましたが今回はここまで
次回は、僕の主宰する創作団体”幻創Pocket”のことについて、書いてみようかな〜と思います。

では、また。