憂暮れのムラサキ

夜にポツリと日々のつらつらを書き綴る村崎の戯言。全部あくまで個人の見解。

MENU

哲学書なんか読むな。って話(再掲)

皆様いかがお過ごしでしたでしょうか。

最近、ランニングを始めましてヘロヘロな村崎です。そんな今回は演劇と哲学のお話。

 

未熟な哲学≒未完な哲学

 

演劇をする人の中で、特にアート志向やコンテンポラリー志向の方の中に哲学書を読んでもっと思想を形成する。と言っているのを何度か耳にした事がある。


確かに、様々な主義が乱立する現代なので、その主義主張の本流や変遷を学ぶのも悪いことではないと思うし、少なからず命題について勉強はするべきだ。様々な哲学者が多様な哲学を説き、その影響を数えきれない人が受けているだろう。

 

ただ、私は演劇における哲学的公正さが必要ではないかと思っている。というよりも、クレバーで居る為に"平熱のスタンス"を心掛けるべきだと日頃から取り組んでいる。この理由は後に語るが、哲学の先駆者たちと精神世界で対峙する時の心構えとでも思って、頭の隅にでも置いておいてほしい。

 

さて、前置きは済んだのでここから持論を繰り出して行くのだが…大前提として、まず、哲学は頭(思考)の毒だと言う事を定義しておきたい。
その上で、哲学書を読んでしまう事で陥る大きな罠について話す事から始めようと思う。

 

哲学書は、必ずしも哲学者が自らペンを取り書き綴った物とは限らないと言う事を知っておくことが必要だと思う。例えば、ギリシアの哲学者達はその門徒が多く弟子たちが思想を纏めた物を編集したりする事もある。或いは、哲学者が書いたものを翻訳する上で解釈が変化すると言うことが起こる場合もある。
様々なフィルターを介した後に世に出る訳であり、誰かの故意によって曲折してしまう事だってありうる。
兎にも角にも、純然たる哲学者の言葉は、よほど懇切丁寧に確証を示し、注釈で
"本人はこう言っていた"とでも書いていてくれなければ、信用するべきではない。

 

だが、仮に本人の思想だと確証が得られたとて安心するなかれ、哲学書というのは一種の布教活動や洗脳を目的としたバックグラウンドを持つこともある。

故に、思考を確立し独自の目線を有するまで固まっていない未熟な思考は、容易に洗脳の煽りを受けてしまうことがある上、それなりに考え抜き固めた思考であっても熟成させようと手を出すには結構ハードな刺激であるのは違いない。

このように下手に思想の濃い哲学を取り入れると逆に取り込まれるのが落ちであると言えるだろう。

 

次に、哲学の指向性と自身の立場の位置づけについて話していく。
哲学とは、あくまでもものさしであり、何をはかりたくて使うのかを用途と合わせて考える必要があると思う。
なので魚屋さんの勘定に尺間法は要らないし、土地代を重量で計算することはないのと同じで、主義主張に合わせた指向性を持ち要らねば、哲学書に書かれた様式に当てはめただけで答えを導き出せないだけの理論になってしまうかもしれない。
こういった事を避け、哲学の効力を引き出す為に最低限度、自身が向く方向と指すべき目的地の設定を怠らないことが必要だ。


補足して言うなれば、それは声を大にして明言しておく方が良いだろう。その方が途中、方向転換や軌道修正で向かう先にズレが生じても道程を明確に開示していれば、聞き手はその変遷を追って着いてきてくれるはずだ。
こうした確実な方向性を持った製作に取り組める準備を済ませることが、哲学書を手に取るよりも先に必要だろう。

 

では、最後に、哲学書を僕が読むなと強く言う理由を話そうと思う。


それは以前にも綴った僕の思想とも深く関わっているのだが、私達が世間の隅々にまで目を配って生きているかといえば、そうではないからだ。
だからといって、世界規模でその時勢に詳しくなれ、などとは1ミリたりとも思っていない。それを自覚することは大切だとは思っているが、それと同時に知らないのが悪ではないと思っている。
それだけ世界は哲学書の記された頃より数段に拡張をしてきたということも、僕は感じているし、我々を取り巻く半径数メートルの世界を大事にする気持ちも痛いほど分かってしまう。
ただ、哲学書を読んでしまう事で、より内向的な世界で遠い過去の漠然とした不安を莫大な時間を使ってねじ伏せて来た人々の言葉に毒されてしまうのが嫌なのだ。だから、僕は思う。

僕たちには、そんな立派な思想も、哲学も、受け入れられる自己が完成していないんじゃないだろうか?
僕たちには、まだ座して哲学書を読み更けるほど、言葉を交えて居ないんじゃないだろうか?
だから、"まだ"哲学書なんか読むな。読んでアナタの思考が消えてしまう前に…

 

書を捨てて、街へ出よう

では、また。