憂暮れのムラサキ

夜にポツリと日々のつらつらを書き綴る村崎の戯言。全部あくまで個人の見解。

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京都学生演劇祭2021 観劇記録

※今回の観劇は配信で視聴した為、ディティールに関して見えなかった為、想像で補った解釈が存在するかもしれませんが、悪しからず・・・です。

 

配信一日目(四日目)

ロミオとジュリエット

 この演目はシェイクスピアの悲恋劇である『ロミオとジュリエット』を45分間という制限の中で一人芝居にて演じるという物でしたが、如何せん、その制約と仕様が無駄にハードルを上げてしまっていたと思う。口上にて、その苦悩というか悲痛が滲んできた訳だが、これをやり遂げたことは素直にすごいと思った。その上で本来の上演と違った仕様がそこには含まれている事を加味したとしても、私には幾つか気になる点がある

  第一に、劇中と現実との出入りの頻度について話したい。ファンタジーの世界観は、演じ手の持久力に依存する部分がある物だと考え、世界観を逸脱しない事による観客の没入が促される仕組みがあるのではないだろうか。その点において、この演目にはメタファーが多く用いられ、奇を衒う意識が介在した感が否めない。例えば、劇が始まって数分のところで役者が水を飲むという場面があった。これは、役者本人が水を欲して、そこで観客に向かい「許可」を取るという“面白さ”だったのかもしれないが、私には現実に引き戻された瞬間に他ならなかった。もちろん、そこにある空気感が狙いすまされたモノなのであれば構わないのだが、結果として目の前を駆け巡る男性に私は呆気に取られており、結果として劇に集中することは出来なかった。

  第二に、劇中の役の演じ分けについてだ。本演目は、一人でロミオとジュリエットはもちろん、出てくる役を全て演じる事になる。その為に頻繁なスイッチングと演じ分けを必要になるわけだが、この際のデフォルメされた演技達が絶妙な上滑り感を作り出し、またもや私の集中を作品の外へと追い出してしまった。これが仮にコントやお笑いの類なのだとすれば、その雰囲気を許容できたのだろうか。そうだとしても私の意識は演技の外側からそれを見ているのであった。

  第三に、親しみを持った口調での演技である。この点は私の好みが大きく関係するが、翻訳された文章はそのままに、それを普段の喋り言葉みたく話していた事に、違和感を覚えたのだ。いっそ喋り言葉にするならば、セリフだってそう改変すればいいと思う。私達が今話している言葉遣いに変えてしまえば、その分扱いやすくスピーディーになる。そうなれば、かの有名な名台詞でさえ、流し気味で話す必要は無くなるのだから見手も演じ手も得をするという物だ。ただ、そこにロミジュリである必要性は無いのだろうが。

  第四に、編集能力である。これは偏に演出の力量に繋がるが、時間制限や校閲、検閲等の関係により、作品の長さは変動することがあり、それはこの演目もそうである。この場合、カットしたシーンの前後を上手くつなぎ合わせたり、端折るべき部分の選定であったり、様々な手法を通して腕が試されるのだ。そして、この演目を強引に宛がうのならば「早巻き」といった所だろうか。いわゆる早送りとも言われるこの方法だが、本当に難しさの極みであり、相当リスクを負っている。この方法にするに至った経緯などが分からない状態では、正直他の手法の方が良かったのではないかと思わされたのである。

  最後に、私自身の率直な感想だが、速さを求めすぎて内容を茶化してしまう事になる位なら、シーンを絞り切って実直な表現にするのも良かったと思う。フルの尺で見られた時には、きっと意見は大きく変わるだろうし、土壇場で仕上げた作品としては百点だと思っている。

 

『◎(わ)』

  この作品は実際に書き下ろされた当時に見たことがある作品だったので、当時と被る部分もあるかと思うが、一応感想を記す事とする。

  この作品には沢山の要素を垣間見る事が出来る。「宗教観」「死生観」「倫理観」「社会」「風土」「土着」「退廃的構想」ほかにも挙げればきりが無い程だ。これほど多くの要素を内包する作品を、何の考えもなくラフに見てしまうと、圧倒的な厚みに思考が追付けなくなった事だろう。それ程の魔がこの作品には隠れている。そう言うと、さも高尚な作品のように聞こえてしまうが、そうではない。これは小さな破滅と小さな自分との話だろう。その世界は中から見ると大きく見えたが、結局の所その外にも世界は広がっていて、そこでしか生きられないと思い込んだ者たちが一生懸命に生きていて、それを外からやって来たものが、誘い、壊し、かき乱すという構図だ。これは「もののけ姫」に似ていると思った。更にそこに寺山修司の「少女観」を混ぜ込み、現代の退廃的な地域社会に当て込んだ物という印象を受けた。この作品の抽象性を良しとするかはそれぞれの価値観によるが、この作品に具象性を求めても結論は何も出ないのがとどのつまりであろう。そうした作品には、時勢や個人の事情などが上乗せされやすく、それによって十人十色の見方を見つけられるのであろうと推察した。こうした、各々の感情で校正がされる作品は結果として“良い”という言葉しか見いだせないのかもしれない。

 

『大山デブ子の犯罪』

  この作品は私が敬愛してやまない作家の一人、寺山修司の作品である。その事を踏まえ、この感想を見守って頂きたく思う。

まずは作品の導入部分について、これは戯曲を見れば分かるが、導入が中々に難しい本だと思う。その難しさと対峙した演出家の苦悩には、思わず脱帽してしまう程である。その上での演出の印象だが「悪くない」といった所だ。それが再現としてか、踏襲した上でのオリジナルか、或いは、踏襲せずの物かは図りかねるが、空間の掌握の面でもう少し詰め様が有ったようにも思う。

次に作品の持つ社会構造と現代社会とのギャップについて、この問題は年代の異なる既存戯曲を使用するうえでは幾度となく降りかかる難題であり、これを越えずには現代でやる意味を問われてしまう部分でもあるが、その面においての答えが少々見え難い様に思えた。

さて次に、美醜の価値観の隙間についてだ。アンダーグラウンドには現状の日本では下品な表現だと感じてしまう物も多くあり、その選別や線引きは難しい。その点で今回は少々間引き過ぎたように思えた。そもそも、寺山氏の戯曲には他にない比喩表現などを用いた性描写や淫猥さ、醜さがあり、他の直接的な表現とは質感も違うことがある為、思い切りよく表現をしても良かった。

では次は、アンサンブルについて、周囲の人間達に少々違和感を覚えた。周りに蠢くアンサンブルは、はたして何を表現していたのだろうか。あくまで私の見解だが、あれは奴隷、もしくは娼婦(陰間)ではないだろうかと思う。その上で、麻薬などを使用しているとも考えられる。そういった人々の表現に舞踏的な手法を用いた事に対する違和感が生じ、結果として浮いて見えていたように思えた。

最後に、「人魚」についての疑問である。演出家は「人魚」という要素をどう解釈したのだろうか。それを是非とも聞いてみたいと思った。

 

P.S 講評にて言及のあった照明の件。僕はあれで良いと思いました。

 

配信二日目(五日目)

『ASHITA』

 これをアングラ感の上澄みと言わずして何と言おうか。この作品にはこれと言って感想は無かった。強いて言うなら、「天文学」「哲学」「科学」“的”な話を、押韻とテンポ感で、何とかした作品だったという事くらい。これは感想ではなく皮肉に聞こえそうだが。

 

『落花』

 私はこの作品を一番評価した。それは一人で作・演出・出演をやってのけたパッション以上に、彼女の繊細で緻密な技巧の数々に伸び代を私は見ていたからである。まず、この作品は「少女観」の上に成り立っていると思われた。この少女観とは、女性が“少女”と定義される時間のみに存在する若い感性の様なものと考えて欲しい。それは本来薄らいで消えゆき、いつしか忘れてしまう物だ。だが、この作品にはそれが存在した。

 この作品の導入で、彼女の発語が静かで訥々としたものから、温かでなだらかな物へと変化する。それは作品の始まりで丁寧に観客を世界観へと招き入れ、語り部分において、彼女の持つ繊細な世界観がイメージとして伝わってきた。その上で、舞台の世界観づくりも非常に効果的だったと思う。正四面に区切られた白の空間は、彼女の全世界を暗示し、小さな自身の内面を描き出して見えた。この世界から隔絶された少女の全世界こそ、作品の中に見た“少女観”の礎だったのかもしれない。こうして物語の幕は開き、少女は私達に語り掛けてくる。それは、彼女の記憶について、彼女が確かに積み重ね、そして失った幸せの記憶についてだ。この作品にて彼女が追憶した幸せはこの世に一つしか無いように見えて、ありふれている物で、その実よく失ってしまう物だった。それを逸る事も無く、弛むこともなく、良い緩急の配分で紡がれる言葉の中で、少女の時分大切にしていた宝物かのように煌めいた思い出が描き出されていた。これは演者の等身大の芝居があった上で成り立っているもので、誇張などは一切感じられなかったし、この演技の質感があった事で、現実と精神世界みたいな物の対比構造も諄く感じなかった。この作りにより、小さな自身の追憶に、大衆が心を動かす感動が生まれていたように感じた。

 そうした時に、気になった点もいくつかある。一つは転調の時に役者が仕切りなおすが如く回る事だ。照明が変化すれば、調子が変わる事は観客も察する。その上で態々場面が変化したことを役者が表現しなくても良いと思った。もう一つは、「失う」ということばのニュアンスだ。記憶に関する「失う」には、忘却、喪失、消失の三つのニュアンスを想像することができる。こうした時、あの繊細さの中でこのブレは大きく感じてしまう。仮に忘却なら、その記憶の輪郭や雰囲気を覚えているだろうし、喪失ならばそこに在った形跡も残り、消失したのなら、過去の感情は混じらない。こういったブレが作品の没入感の中に少し不純物として見えてしまった。

 最後に、終演からハケるまでのあのスピード感が私は好きだった。世界観だけが舞台上に取り残され、ふよふよと漂って名残りを見せていたからだ。

 

『つながりからの研究』

 作品が始まって、役者が登場してから口を開くまでの間がすごく好きだった。あの静寂の中でいつの間にか世界に足を踏み入れてしまってたんだと思う。そうして紡がれる言葉も等身大の言葉。飾り立てられる事も、雑味が出る事もない言葉には日常を煮詰めた様な非日常を感じた。これを私はサミュエル・ベケットの作品に似た不条理に感じてしまった。彼らは確かにこの世界のどこかに存在するのに、何故かそれを認識できずにいる居心地の悪さを私は感じていた。ただ時々、その等身大の言葉の中から、胸に刺さる言葉が飛んできた。それは言葉の重みというよりは、重大な失念を思い出すような気持ちに近かった。劇中で彼らの叫びがラップになる瞬間は滑稽に見えたが、その実、本当に嗤う事は出来ぬ内容だったと思う。この不器用な隣人たちが見せる友情劇とそれを取り巻く環境、果ては現実世界の環境までも取り込んで、この世界が現実であると何度も確認させられた。この不完全な人間を愛することで、自分の不完全さもどこか許せるようなそんな作品だった。

この作品の「吃音」「歩く事」「電車」といった要素がそれぞれどう比喩表現できるだろうかと妄想をしながら見ても、面白かったに違いない。そして、最後に一瞬見せた摺り足の哀愁が、今も忘れられないでいる。

 

配信三日目(六日目)

『シタイ』

 舞台設定がシンプルな作品だった為に、演者の技量が極端に目についてしまった作品で、このシチュエーションならもっと練り込むべき演出があったと思う。例えば、年齢表現は誇張したやり方をするとシリアスに不向きだったり、【シタイ】という言葉が重要なかかり言葉だからと露骨に粒立ててしまっていたり、舞台において異質の存在である解剖医などの癖のあるキャラがいる事によって他のキャラクターが浮き立たなくなっていたり、少しステレオタイプに感じてしまった。ただ、その上で取り組む姿勢は評価したいと思った。演劇に真摯に向き合ったという事が伝わる作品作りを続けて欲しい。

 

『線路の間の花々は旅の迷い風に揺れて』

これについては正直、コメントに迷うが・・・

でも、書かないのも、それはそれであとくされが悪いので、思った事だけでも書こうと思う。

まず、導入における唐突感の連続に、呆気に取られて、いつの間にか始まっていた為、その段階でかなり置いてけぼりを食らっていた。

次に、MCの雰囲気に、戸惑ってしまい、その流れで始まった音楽祭に頭が追い付かなくなった。

あと、二曲目の後半あたりからのガチャガチャ感に一層混乱をしてしまった。とりあえず、もう少し筋道が立って状態だったら、少しは分ったかもしれないかな。

 

『素敵な部屋』

 この作品は、星新一の言うところの「SF」って奴だ。つまりは少し不思議な話だったのだが、この物語の構造は面白いと思った。最終的には夢で終わるこの話だったが、その中に盛り込まれた話は、決して夢オチに霞むような物でもなかった。だからこそ、演技力が必要とされる作品でもあったと思う。女性の発声が少々高く出ていて、上擦っていた印象で、体幹が原因なのか少し揺れていた。全体的に会話が上滑りしていて、内容を追うのに聞き耳を立てる必要があったので、環境音との共生は難しかったと思う。外の視点がより増えたら、作品の質が上がったんじゃないかなと思う。

誰が演劇を殺したのか。

貴方の大事な、大事な演劇は死にました。

さて、今日もセンセーショナルなタイトルで目を引いてしまい申し訳ありません。

改めまして、幻創pocket主宰であり、演劇を難しく考える人ムラサキです。

 

私に語る事ができるのは、やはり演劇の事だけですね…w

 

多趣味というか、無趣味というか幅広く浅い興味を持つ私には「演劇」という浅く広いのに、どこかディープなこの世界が性に合っているように思えます。どこを掘っててもその行き着く先は全て一つに収束する、それがいいんですよね。極めきれない物に魅力を感じてしまうこの気持ち、分かっていただけますか?

 

と、前置きが長くなりましたが本日は、

演劇を殺す3の要因と、その考察について

 

考察と銘打ったもののコレは他の誰かの意見ではなく、私発信の考察なのでどなたかが取り上げてくれないと始まらないんですよね。|д゚)チラッ、チラチラッ

 

まあ、それはさておき本題に入りましょうか。

私が愛してやまない演劇という世界は、実は一部焦土と化しています。その焦土の中にあるのが所謂“小劇場“と呼ばれる部分なんですが、こんな事言ってたらまた怒られちゃいますかね。私が演劇を志し始めた頃には、すでに小劇場演劇は下降の真っ只中にありました。演劇をする人間への視線は冷ややかで、道楽やお遊びの類いだと後ろ指を指されてばかりでした。それもその筈、実際に稼いでいる劇団があったとしてもその陰には生々流転の有象無象が食いっぱぐれて消えて行っていたのですから。そう言ったものに対する世間の風当たりは冷たくなって当然だったでしょう。しかし、その中に居ながらにして、隣の芝を焼き払う如き淘汰も行われていました。つまりは方向性の違いで衝突するバンドマンさながらの事を団体単位で行っていたりしたわけです。

 

これは、衰退するのが火を見るより明らかかもしれません。私も長い時間をその中で過ごし、毒されていた時期もありました。それを脱したのもここ2.3年の事で、それまでは自身の作品を守るためには、他者より優れていなければ・・・なんて、在りもしない批判に怯え、目に見えるもの全て比較してしまっていたと思います。そんな乏しい状態もいつしか吹っ切れ、自由に表現をすることで薄れていく中で私達が乗っていたのはただの小さな一つの船であると理解しました。理解した頃には、タイタニックよろしく沈みだしていたって話なんですが・・・。

こうしたプロセスの中で何度も漂流体験をし、その度に思うことがありました。

 

…演劇は今、死んでいるのではないか?

 

いつしか、演劇をしている誰もが、死体の上で踊る滑稽な人間にさえ思えてくるほどに私の心はその言葉に支配され始めました。長い歴史の中で一度たりとも中身を改められず、闇の中にずっと隠されていた事実があるんじゃないだろうか、そんな想いが私の頭を拗らせ続けました。これが演劇界におけるシュレーディンガーの猫の様な永遠の問答として長らく私の脳内で首をもたげ始めたのです。

そこで、私の思考は「演劇は誰によって殺されたんだ?」という疑問に行き着きます。この疑問が分かれば、演劇は息を吹き返すのかもしれない。そう思った私は、この考察を開始しました。

 

私が立てた仮説は三つ

  1. 演劇を殺したのは、当事者である。
  2. 演劇を殺したのは、観衆である。
  3. 演劇を殺したのは、政治である。

諸々はこのいずれかに帰着すると考えました。

以下では、その一つ一つを解説していこうと思います。

1.演劇を殺したのは、当事者である。

これが、一番最初に考えられる要因でしょう。演劇を執り行う人間達の能力的な面や体制などの面、そして興行師と言われる人間の減少、不況の中での諦め…etc.

原因は様々に考えられますが、どれも改善無しには演劇復興などありえませんよね。

その上で、考えたいのは当事者という枠組みの中に誰が入っているのかという事です。当事者とは、主宰者の事でしょうか演劇は集団芸術と言われる反面、たった一人の人間が発起する事ができます。それは興行師然り、脚本家然り、演出家、役者、出資者等々どんな人でも人を集めて始めてしまえるのが演劇です。

 

では、その責任が波紋を作り出した一石に集約されているのですか?

 

だとすれば、生死を司っている立場の人間はそれ相応の権利を持っているでしょうか。これはこと小劇場に限って、答えはNOではないでしょうか。大きな劇団や資金を下支えする企業や事務所が付いている物は、きちんとした体制を維持でき、それによる序列や地位も約束されるでしょう。しかし、そうでなければ多くの場合は同列に扱われるか、他者を尊重する立場にいる事が多いでしょう。これはあくまで個人的な見解ですが、心当たりある方が殆どではないですか?

 

では、責任はどこへ行くのでしょう。

 

これは集団におけるジレンマなのですが、その責任はどこかにありながらどこにも無いと言えるでしょう。転嫁し合った結果どこにも行きつかずに最終爆発する瞬間に持っていた者がその槍玉にあがる、と言った所が真理なのではないでしょうか。

この様にして、責任が当人達の上をたらい回しにされる事になった元凶はそもそも価値創造が上手くいっていない事に他ならないのです。つまり、この仮説の終着点は、先人達から脈々と続く演劇の歴史の中で、誰も道筋を築くなり、虎の巻を記してこなかったという問題に行き当たり、結果的に当人が演劇を徐々に腐らせ、殺してしまったという事になります。

 

2.演劇を殺したのは、観衆である。

次に演劇を殺したのは観衆であるという仮説ですが、これについて観客ではなく観衆と書きました。理由としては来場者(お客様)に限らない事を指し示したかったからです。多くの論評は観客の練度が話題に挙げられますが、そもそも総数の少ない観客に練度を求めるのは如何な物かという個人的な気持ちがあり、もっと外へと枠組みを広げ演劇を行なっていない側全てを指すことを意図して書きました。

 

私達は一所懸命に演劇を執り行っている前提になってしまいますが、がむしゃらに声をあげても、それを聴く人間が居なくては演劇は成立しません。現に演劇を志す人口は、減る事なく、また劇団や興行も絶えず続きはしていて、供給は過多だと言えるでしょう。しかし、観客席を見ると見知った顔が多くなり、空席も目立つといった具合に過疎化の一途を辿っています。現状人を多く呼ぶことができる役者が重宝されるのは、この点が大きいのではないですかね。

 

ここで勘違いして欲しくないのは人数を集める事について多い少ないではなく、この場合、何度同じ演目を見てくれる人が居るかの部分だという事です。

 

・・・ちょっと分かり難いか。

 

このブログの冒頭にも書いた、後ろ指を指される環境の中でそれでも見に来てくださる観客の方はいます。その方達が演劇を殺しているなんて言いたくはないですが、実際に演劇を見ている方々が、見ていない方々に対して何をしているでしょう。何もしてないのか、或いは布教活動をしているのか、それともマウントを取っているんでしょうか。現状その全ては神のみぞ知るといった感じですが、私達が提供する物を同業者やそれ以外の多くの方が見に来てくれることにより、私達は飯にありつき、暖かな家でぐっすり眠る事が出来ているわけですが、この母数が少なくなれば自ずとその界隈は衰退を始める事になるでしょう。事実、演劇の芸術的な側面は今や不毛地帯になり、多くは助成のもとに成り立っています。それも限られた数だけでそれ以外は・・・もう。言わずともわかりますねw

 

こうした状況の中、劇場の外を行き交う大多数の人が私達のやっている事に、イマイチぴんと来てない現状が浮き彫りになりました。私達はカルトやテロリストと並べられる事さえあって、その実内容はとてもメルヘンだったり、近隣から迷惑がられて苦情を言われる中、その人が日々抱える苦悩を描き出す作品だったりして、こういった開演時間に往来を行き交っている人々が、私達を穿った見方で殺してしまうのかもしれません。

 

だからこそ、観衆が今の演劇の死をより一層深く暗い物にするのです。

 

3.演劇を殺したのは、政治である。

最後の仮説は、より大きな問題になるでしょう。

演劇の歴史は、批判と反発の歴史と言っても間違いはないぐらい、政治や時代と常に争いを続けてきました。王政の陰には喜劇、学生運動の裏にはアングラ、そして何より、今の世の中に現代劇がその毛色を濃くついでいます。

 

演劇とは常々、私達を取り巻く不条理に対して牙を剥き、政治批判や時代を切ってきました。それのツケは、かなり大きくなって現代の私達にしわ寄せとなって帰ってきました。そもそも国の制度として、芸術に対する門戸の狭さが憂いとなる中で、演劇は更に狭き門になっています。

 

もはや、職として国は認めちゃくれないのかもしれませんが、私達はその狭い助成の席を争って、申請を我先にと行っているんですね。それでも、国が認めてくれるのは、安全な物語だけ。牙を剥く作品には、びた一文も払われる事はありません。こうした制度の欠落により、演劇の土壌自体が死んでいく事になれば、自ずと根を深く張れていないものは死んでいくことになります。

 

至極当然の結果ですが、私達を救う制度は1つたりともないのが現状で、私達よりも随分前から演劇は生きていける稼ぎも、支援もなく見殺しにされてしまったのです。

 

 

 

こうして、演劇は死んでしまいました。

だがしかし、今も闇の奥底で栄華の時代を生きていると信じられながら、その暗がりを暴こうかと言う者もなく、演劇はこれからも続くのです。

 

さあ、演劇は誰に殺されたのでしょうか。

果たして、その答えは出るのでしょうか。

 

それは、何れまた。

某有名クリエイターの炎上について思う事。

行動と、裏腹な思考回路。

私達は物事のその表層しか見ることは出来ない。

ただ、その内部へと思考を巡らせることは出来る。

 

さて、今回は格言めいた言葉から始めてみましたが、いかがお過ごしでしょうか皆様。

最近は豆から挽いてコーヒーをドリップしている村崎です。

 

本日から再録版、もとい再掲載していたブログから新たに更新するブログになってまいります。ちょっとだけズルしちゃってた分をこれから挽回していきますねw

 

さあ、今回のテーマですが

『最近の炎上騒動、なんかおかしくね?って話』

 

そういえば、私的に思い出深い言葉ですが「この世の不利益は、全て当人の能力不足」と某漫画の主人公さんも言っておりました。これはこれで、また一つの見解ではありますよね。ただ、多くの人間は「抑圧」と「衝動」の間に感情が囚われてしまっていると言えるでしょう。何でもかんでも合理的に考えてゆける余裕のある人間というのは、稀であり、それが故に大変重宝されているのでしょうね。

 

では早速、本題へと入って参りますが、私がこのテーマについて書こうと思い立ったのは某有名クリエイター方の炎上騒動です。多くの方がこの話題に対して、失望なり、憤慨なり、苦言を呈した事かと思います。その中で実際に他のクリエイター達が糾弾する動画や、本人たちの謝罪動画、この騒動に対する立場の取り方を明言する多くの人々がおり、その視聴者たる私達もその話題に対する考えを少なからず持った事でしょう。

 

しかし、私がこの話を書こうと思い立ちながらも、ここまで日を先延ばしにしたのには理由がありました。彼らが実際、宣言下に大勢でお店に集合した事実は決して褒められたことではありませんでした。私だってこの一件を全てに亘って擁護しようなんて微塵も思っていません。ですが、7/10現在になってみてどうでしょう。

 

【感染者報告は一人として挙がっておりません】

 

これは、不用意な開催によってたまたまこの結果を生んだのでしょうか?

 

年齢層が若いから、或いは事務所がひた隠しにしているから少ないのでしょうか。

 

・・・そんな事は、無くない?(実際にそうだという確証がある訳では無いですが…)

これから先、感染者の報告もされるかもしれませんが、現状で何も出ていなかったわけですから、”悪い事ではあったけど無事で良かった”ってのが今の感想なんじゃないですかね。

 

でも、報道によって皆さんの目に触れて・・・炎上する事になりましたよね。

この違和感、伝わりますでしょうか。多くの人間が糾弾したり、憤慨したりを間違っているとは言えませんが、それでもなんか変だな。という気持ちを拭い去れない私がいる訳ですよ。実際のところ、緊急事態宣言が発令されてから自粛を余儀なくされた私達も巣篭りしっぱなしとはいかなかった訳じゃないですか。そんな中で不要不急なんて言葉を上手く利用して、仕事は◎、遊びに出るのは×なんて線引きをし始めて、外へ何とか出て来させようとしたわけです。我々も外へは出たいですしね。

そこで各々の尺度がズレ始めて、大規模なイベントは×、でも議員が大勢集まる会議は◎とか、演劇×、ライブ×、でもオリンピックは◎とか…etc.

 

結局はケロッとして『やりたい事を我慢しないで良かったんですよ。』なんて言い出し始めるんじゃないでしょうかね、そのうち。そういう中で、世の中の動向とか、周囲の目とかと、人情や義理を天秤にかけて、他人の祝い事なら…とか、細心の注意を払えばとかって尺度を設けてやりたい事をしたんです。

 

そして、事実その賭けに勝ったんです。

 

よく考え直してみてください。彼らがおこなった事を責める事が出来る程に潔白な人間がどこに居るでしょうか。そして、皆さんがどこかで免罪符にしているであろう言葉の「罹らなかったから」を彼らに宛がわないで居るのはなぜでしょうか。

 

緊急事態宣言が発令されたことにより、どこかで価値観を見失ってしまったかもしれませんが、不用意な事をした人間を責め立てるのならば、彼らがクラスターの発生源となったり、集団感染を起こしそれによる事態悪化を招いてからしか、私たちに責め立てる権利など無いのではないでしょうか。

 

暴論、詭弁と言われるであろう覚悟をしていますが、事実として今は感染者が出てないのですから、責めるべき事柄を見誤らないでほしいのです。

 

またこれも、炎上商法だって言われるんでしょうかね・・・。

では、また。

元始、言葉は絵画的であった。

如何お過ごしでしたでしょうか、皆さん。

最近の気温のアップダウンで見事に床から立ち上がれなくなっていた村崎です。

一昨日の投稿で、やっとこさ作家としての片鱗をほんのちょっと見せられたでしょうか

 

本日のボヤきは、

言葉がシンプルさを得て、失った物

についてのお話。

 

皆さんが言葉を使い始めて幾年経ったでしょうか。初めて発した言葉は何だったでしょう。

因みに、僕は「りんご」だったと聞いてますw

 

そう、言葉は単的に事象を表現し、意識を共有化していく為の記号という側面がありますが、反対に抽象的で多くを秘めた美しい文学作品の中で紡がれた多義的な言葉たちも存在し、近現代においてはその広がりを私達は全て追うことは難しくなっています。

 

しかしながら、現代の言葉の形態の変化は簡略化・短縮の傾向を強めています。

 

例えば「乙」や「草」最近で言えば、「ぴえん」などといった簡略化された言葉は元はネット発信であり、旧2chの文化を色濃く残す言葉ですが、元となる事象や事柄などを意識している人はどの程度いるのでしょうか。そもそも元となるネタを知らずとも会話に取り入れて話している人が多いでしょうし、自然発生的にどこかから湧き出てきた言語であると思われる物も散見しますので、発生元を探る方が一苦労です。

 

このような、所謂スラングと言われる物と並んで短縮された造語も多く登場しました。よく使う物で思いつくのは、「とりま」や「~み」といった所でしょうか。これらは、元々の言葉の短縮や長ったらしい言い回しの省略を意図していますが、その汎用性は底知れず、言語破壊を起こしているのではないかと感じる程に蔓延っています。

 

かくいう私も、身内での会話の中では使ってしまいます・・・。

 

しかし...日常に多く普及した反面で私の領分には多大な被害が出ていました。

演劇には、ト書きと呼ばれる台詞や場面の合間で情景や動作、心情などを補う役者達に向けた説明文の様な物が存在するのですが、そこに書かれた心理描写が理解できない者や言い回しや名称、文章表現を知らず演技に繋がらない者など、言葉のスペシャリストともいえる「役者」という役割の中で、不勉強な状態が目に余るようになりました。

 

まあ、私が言語ガチ勢である事は百歩譲って認めます。しかしながら、これがヒドイ。

 

感情を表す繊細な言葉は日本語に多く存在し、それは日本の情景などと密接に関係していたりします。悲しみを雨に準えたり、戸惑いや迷いを霧に例えたり、喜びを陽や花に当てがった物など、その多くに気候、風景、色や形と多くを視覚的情報から言語へ結び付けてきました。しかし、その感情表現を「ま?」や「ぴえん」といった言葉に集約させ、剰えそれのみで会話を成立させて、挙句意見がすれ違うのですから目も当てられない。

 

もちろん言葉は、日々刻々と変化を続けていくものです。ですが、ある瞬間から言葉の持つ意味や、形式ばった伝え方の意義が失われ、空の器だけが独り歩きを始めてしまったのです。それは、多義的な言葉の交錯を減らした一方で、文化的なあらゆる物から私達を遠く引き離してしまった事に誰も気が付いていません。

 

私達は言葉を守っていく事が出来る唯一の生物だからこそ、難しいだとか面倒くさいだとかに阻まれて、簡単に伝える事を諦めてはいけないと思うのです。

 

元始、記号が言葉になった時に文明は広がり、人類が栄えていったのなら、私達が言葉を記号に帰して時、文明は途絶え、人類は衰退してしまうのでしょうか。

 

これが私の誇大妄想である事を祈りつつ、今日はこの辺りで・・・。

 

では、また。

見えない壁がいつもそこにはあった(再掲)

こんばんは、皆さん。

 

夜は、物思いに耽る事が多くなって夜更しが捗ってしまいますね、いかんいかん。

 

そんな今日の物思いを一つ聞いてください。

 

敷かれたレールも無く。

ただ、はみ出す事も許されず。

 

僕の四半世紀の生涯は、いつの間にか枠組みの外までやってきてしまっていましたが、それでも19になるまでは、親の期待を背負った真っ当な青年でした。

あからさまな型はめを受ける訳でもないが、逐一きっちり境界線の内へと突き返されては来た青春だったと、今になって思います。

 

放任主義で育ててきたから」なんて親の口からよく周りには言ってましたが、本当に放任主義かと言われれば、一張一弛で放たれてみたり、縛りつけてみたりと、高低差の激しい状態でした。

 

勿論、親には感謝している部分が殆どですが、今になって育て方の後悔なんぞボヤかれた日には、目から火が出る位の跋の悪さを感じてしまいます。

 

それでも、大学が決まって、県外に出てきて…

一人の時間がより一層増えてきて、そうして選択の機会も増えました。そうして数々の失敗を経て沢山の経験を得ました。そこではたと気が付いたんですよね、この世の中には意識せず歩けばそこかしこで見えない壁が僕らを誘導してるんだって事に。

 

だからこそ、穿った見方だとしても立ち止まって考えて、歩きながらも考えて、寝ても覚めても、思考をする事を辞めない様にしてきました。今は少しだけ不信感も折り合いが付き、少しは頭を休める事を覚えましたが、大学の前半2年は…慢性的に頭痛に悩まされるくらい頭の中ぐっちゃぐちゃになってました。

 

だからなのか、その当時のメモ書きを見返すと頭が痛む事もありましたw

 

それでも、やはり思考する事は辞められないです。何度も何度も立ち返って疑問や課題点を見つめ直す事で、自分が如何に誘導されず路を選ぶかをいつも考えています。

 

そうした苦悩の中で、僕は日々を浪費していて、それでも何かを生み出したくて死物狂いになってて、藻掻いても足掻いても生きてるんだって事を辞めないでいられるのは、やっぱり、青年だった僕が感じ続けた日々の上滑り感が今に続いているんだなって思いました。

 

だからって訳では無いんですが、上滑りする様な日々を生きる人々に向けて文章を書いているのかなって改めて思いました。

 

それでは、また。

『雨垂れに星』-フラクタル 外伝-

…あの夏祭りの十数年前。三人の少年少女が出会うよりも遥か昔の話。

 

 汽車の動き出す音が遠く過ぎ去っていく。今日はここ、清条ヶ丘の星祭りの日だ。だが、生憎と乗客が駅に降り立った頃から小雨が降りだしたのだった。空は雨曇りで、一面灰がかった雨雲が敷き詰められていた。改札に向けて人々が駆け足に向かっていく中、ホームをトボトボとした歩みで一人の青年が歩いていた。

 彼の家は、父が遺物研究で有名な機関の副局長、母は大学で民間伝承を研究している。そんな両親の影響を受け、彼もまた伝承や遺物に惹かれる人間の一人であった。そして、この星祭りについての”ある噂”を耳にして遠路はるばる新都からやってきた。その噂というのが、「星夜の神隠」と呼ばれる伝承で、なんでも夜の神に選ばれた少女が夜な夜な行方をくらまし、遂には帰らなくなるというのだ。それを事実と捉え、この地域にはそれを畏敬の対象とし、満天の星の夜に満月が上がる日に孤独を憂う神の心を鎮める儀式として、供物と舞を奉納する祭りをひらいていたそうだ。

 

「雨、ですか。止みますかねぇ・・・」

 

 青年はそういうと丸くなるほどに膨れた背嚢をドカリッと下ろし、その中から雨具を引っ張り出した。それに連なって諸々辺りに散らかったが、何食わぬ顔で雨合羽の袖に手を通してゆく。散らばった荷物の中には、ダウジングの道具やコンパス、六分儀に見慣れない道具の数々があった。彼はYシャツの襟を正すと、雨合羽のジッパーを顎元まで引っ張り上げた。それから生成りのスラックスの裾を折り上げると、そこらに散乱した道具たちをまた乱雑に突っ込んで、雨の中へと走っていった。雨は一層、その強さを増していた。

 

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率先して業界を後退させるのは…(再掲)

最近、夜型人間極めてる村崎です。

 

日を跨いでの更新が板について来てしまって、皆さんの目に留まりにくくなっちゃってるな。と焦るこの頃です。

 

そんな今日のお話は

演劇の批評家が…ちょっと…

って事について

 

僕自身も、演劇に対するクリティカルシンキング(批判的思考)を用いる事もあります。

ただ、心掛けとして飽く迄も『ポジティブで有ること』を前提に、批判をする間のみに限る事にしています。

 

つまりは、ネガティブな批判になんの意味が有るんだろうって話なんです。ここで勘違いされたく無いのは、ネガティブな話題に触れるなって話じゃなくて、話のベクトルがネガティブな方向で終わるなって事なんです。

 

意味…伝わりますか?

 

これは演劇に限った話ではないですが、カスタマーは純然たる顧客であり、受け身な立場です。

しかし、それを忘れ、顧客自身が顧客至上主義を語りだすような違和感に私達は目を瞑って見ないようにしている。

 

そういった所に、「批評家もどき」が湧くきっかけを作ってしまっているのかなって思いました。

 

というのも、実はモデルケースとなる人物が数名居るんです。敢えて名前は上げませんが、この方々がホントに目の上のたんこぶよろしく、ウザったくてしょうがないんです。

その理由も単純で、後進的な業界にあって批評家面をして、剪定をするような振る舞いの批評をして、その実改善点を上げるわけでもなければ、好みを書き連ねて、挙げ句は好き嫌いの話で終わるんです。

 

そして、それらは多くの場合、比較対象や情報のソースを不明瞭にしているんです。とどのつまり個人的見解だと明言すらしない奴らなんです。

 

結局は、ズブの素人同士が足を引っ張り合う様な現業界内部において、さらに業界を衰退させる種になる者が居る事でより発展が遅れる事になってしまうのではと危惧しています。

 

俯瞰的な視点を必要とする人々は多い筈なのですが、アドバイスの本質として、叱咤すれば激励も合わせ、課題点を指摘すれば改善策を教授するというバランスを取らねば、それはただの叱責でしかないという事です。

 

私自身も、否定的なコメントをする事はありますが、改善や伸びしろなどの打開策を見つけるよう心がけています。ですので、これに目を通した方はなるべく、心掛けて行きましょうね

 

では、また。

 

 

 

たけしさんのバカ論が、業界を越えてすごく勉強になったので、おすすめしておきます。宜しかったら…

 

バカ論(新潮新書)

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