憂暮れのムラサキ

夜にポツリと日々のつらつらを書き綴る村崎の戯言。全部あくまで個人の見解。

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元始、言葉は絵画的であった。

如何お過ごしでしたでしょうか、皆さん。

最近の気温のアップダウンで見事に床から立ち上がれなくなっていた村崎です。

一昨日の投稿で、やっとこさ作家としての片鱗をほんのちょっと見せられたでしょうか

 

本日のボヤきは、

言葉がシンプルさを得て、失った物

についてのお話。

 

皆さんが言葉を使い始めて幾年経ったでしょうか。初めて発した言葉は何だったでしょう。

因みに、僕は「りんご」だったと聞いてますw

 

そう、言葉は単的に事象を表現し、意識を共有化していく為の記号という側面がありますが、反対に抽象的で多くを秘めた美しい文学作品の中で紡がれた多義的な言葉たちも存在し、近現代においてはその広がりを私達は全て追うことは難しくなっています。

 

しかしながら、現代の言葉の形態の変化は簡略化・短縮の傾向を強めています。

 

例えば「乙」や「草」最近で言えば、「ぴえん」などといった簡略化された言葉は元はネット発信であり、旧2chの文化を色濃く残す言葉ですが、元となる事象や事柄などを意識している人はどの程度いるのでしょうか。そもそも元となるネタを知らずとも会話に取り入れて話している人が多いでしょうし、自然発生的にどこかから湧き出てきた言語であると思われる物も散見しますので、発生元を探る方が一苦労です。

 

このような、所謂スラングと言われる物と並んで短縮された造語も多く登場しました。よく使う物で思いつくのは、「とりま」や「~み」といった所でしょうか。これらは、元々の言葉の短縮や長ったらしい言い回しの省略を意図していますが、その汎用性は底知れず、言語破壊を起こしているのではないかと感じる程に蔓延っています。

 

かくいう私も、身内での会話の中では使ってしまいます・・・。

 

しかし...日常に多く普及した反面で私の領分には多大な被害が出ていました。

演劇には、ト書きと呼ばれる台詞や場面の合間で情景や動作、心情などを補う役者達に向けた説明文の様な物が存在するのですが、そこに書かれた心理描写が理解できない者や言い回しや名称、文章表現を知らず演技に繋がらない者など、言葉のスペシャリストともいえる「役者」という役割の中で、不勉強な状態が目に余るようになりました。

 

まあ、私が言語ガチ勢である事は百歩譲って認めます。しかしながら、これがヒドイ。

 

感情を表す繊細な言葉は日本語に多く存在し、それは日本の情景などと密接に関係していたりします。悲しみを雨に準えたり、戸惑いや迷いを霧に例えたり、喜びを陽や花に当てがった物など、その多くに気候、風景、色や形と多くを視覚的情報から言語へ結び付けてきました。しかし、その感情表現を「ま?」や「ぴえん」といった言葉に集約させ、剰えそれのみで会話を成立させて、挙句意見がすれ違うのですから目も当てられない。

 

もちろん言葉は、日々刻々と変化を続けていくものです。ですが、ある瞬間から言葉の持つ意味や、形式ばった伝え方の意義が失われ、空の器だけが独り歩きを始めてしまったのです。それは、多義的な言葉の交錯を減らした一方で、文化的なあらゆる物から私達を遠く引き離してしまった事に誰も気が付いていません。

 

私達は言葉を守っていく事が出来る唯一の生物だからこそ、難しいだとか面倒くさいだとかに阻まれて、簡単に伝える事を諦めてはいけないと思うのです。

 

元始、記号が言葉になった時に文明は広がり、人類が栄えていったのなら、私達が言葉を記号に帰して時、文明は途絶え、人類は衰退してしまうのでしょうか。

 

これが私の誇大妄想である事を祈りつつ、今日はこの辺りで・・・。

 

では、また。