憂暮れのムラサキ

夜にポツリと日々のつらつらを書き綴る村崎の戯言。全部あくまで個人の見解。

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京都学生演劇祭2021 観劇記録

※今回の観劇は配信で視聴した為、ディティールに関して見えなかった為、想像で補った解釈が存在するかもしれませんが、悪しからず・・・です。

 

配信一日目(四日目)

ロミオとジュリエット

 この演目はシェイクスピアの悲恋劇である『ロミオとジュリエット』を45分間という制限の中で一人芝居にて演じるという物でしたが、如何せん、その制約と仕様が無駄にハードルを上げてしまっていたと思う。口上にて、その苦悩というか悲痛が滲んできた訳だが、これをやり遂げたことは素直にすごいと思った。その上で本来の上演と違った仕様がそこには含まれている事を加味したとしても、私には幾つか気になる点がある

  第一に、劇中と現実との出入りの頻度について話したい。ファンタジーの世界観は、演じ手の持久力に依存する部分がある物だと考え、世界観を逸脱しない事による観客の没入が促される仕組みがあるのではないだろうか。その点において、この演目にはメタファーが多く用いられ、奇を衒う意識が介在した感が否めない。例えば、劇が始まって数分のところで役者が水を飲むという場面があった。これは、役者本人が水を欲して、そこで観客に向かい「許可」を取るという“面白さ”だったのかもしれないが、私には現実に引き戻された瞬間に他ならなかった。もちろん、そこにある空気感が狙いすまされたモノなのであれば構わないのだが、結果として目の前を駆け巡る男性に私は呆気に取られており、結果として劇に集中することは出来なかった。

  第二に、劇中の役の演じ分けについてだ。本演目は、一人でロミオとジュリエットはもちろん、出てくる役を全て演じる事になる。その為に頻繁なスイッチングと演じ分けを必要になるわけだが、この際のデフォルメされた演技達が絶妙な上滑り感を作り出し、またもや私の集中を作品の外へと追い出してしまった。これが仮にコントやお笑いの類なのだとすれば、その雰囲気を許容できたのだろうか。そうだとしても私の意識は演技の外側からそれを見ているのであった。

  第三に、親しみを持った口調での演技である。この点は私の好みが大きく関係するが、翻訳された文章はそのままに、それを普段の喋り言葉みたく話していた事に、違和感を覚えたのだ。いっそ喋り言葉にするならば、セリフだってそう改変すればいいと思う。私達が今話している言葉遣いに変えてしまえば、その分扱いやすくスピーディーになる。そうなれば、かの有名な名台詞でさえ、流し気味で話す必要は無くなるのだから見手も演じ手も得をするという物だ。ただ、そこにロミジュリである必要性は無いのだろうが。

  第四に、編集能力である。これは偏に演出の力量に繋がるが、時間制限や校閲、検閲等の関係により、作品の長さは変動することがあり、それはこの演目もそうである。この場合、カットしたシーンの前後を上手くつなぎ合わせたり、端折るべき部分の選定であったり、様々な手法を通して腕が試されるのだ。そして、この演目を強引に宛がうのならば「早巻き」といった所だろうか。いわゆる早送りとも言われるこの方法だが、本当に難しさの極みであり、相当リスクを負っている。この方法にするに至った経緯などが分からない状態では、正直他の手法の方が良かったのではないかと思わされたのである。

  最後に、私自身の率直な感想だが、速さを求めすぎて内容を茶化してしまう事になる位なら、シーンを絞り切って実直な表現にするのも良かったと思う。フルの尺で見られた時には、きっと意見は大きく変わるだろうし、土壇場で仕上げた作品としては百点だと思っている。

 

『◎(わ)』

  この作品は実際に書き下ろされた当時に見たことがある作品だったので、当時と被る部分もあるかと思うが、一応感想を記す事とする。

  この作品には沢山の要素を垣間見る事が出来る。「宗教観」「死生観」「倫理観」「社会」「風土」「土着」「退廃的構想」ほかにも挙げればきりが無い程だ。これほど多くの要素を内包する作品を、何の考えもなくラフに見てしまうと、圧倒的な厚みに思考が追付けなくなった事だろう。それ程の魔がこの作品には隠れている。そう言うと、さも高尚な作品のように聞こえてしまうが、そうではない。これは小さな破滅と小さな自分との話だろう。その世界は中から見ると大きく見えたが、結局の所その外にも世界は広がっていて、そこでしか生きられないと思い込んだ者たちが一生懸命に生きていて、それを外からやって来たものが、誘い、壊し、かき乱すという構図だ。これは「もののけ姫」に似ていると思った。更にそこに寺山修司の「少女観」を混ぜ込み、現代の退廃的な地域社会に当て込んだ物という印象を受けた。この作品の抽象性を良しとするかはそれぞれの価値観によるが、この作品に具象性を求めても結論は何も出ないのがとどのつまりであろう。そうした作品には、時勢や個人の事情などが上乗せされやすく、それによって十人十色の見方を見つけられるのであろうと推察した。こうした、各々の感情で校正がされる作品は結果として“良い”という言葉しか見いだせないのかもしれない。

 

『大山デブ子の犯罪』

  この作品は私が敬愛してやまない作家の一人、寺山修司の作品である。その事を踏まえ、この感想を見守って頂きたく思う。

まずは作品の導入部分について、これは戯曲を見れば分かるが、導入が中々に難しい本だと思う。その難しさと対峙した演出家の苦悩には、思わず脱帽してしまう程である。その上での演出の印象だが「悪くない」といった所だ。それが再現としてか、踏襲した上でのオリジナルか、或いは、踏襲せずの物かは図りかねるが、空間の掌握の面でもう少し詰め様が有ったようにも思う。

次に作品の持つ社会構造と現代社会とのギャップについて、この問題は年代の異なる既存戯曲を使用するうえでは幾度となく降りかかる難題であり、これを越えずには現代でやる意味を問われてしまう部分でもあるが、その面においての答えが少々見え難い様に思えた。

さて次に、美醜の価値観の隙間についてだ。アンダーグラウンドには現状の日本では下品な表現だと感じてしまう物も多くあり、その選別や線引きは難しい。その点で今回は少々間引き過ぎたように思えた。そもそも、寺山氏の戯曲には他にない比喩表現などを用いた性描写や淫猥さ、醜さがあり、他の直接的な表現とは質感も違うことがある為、思い切りよく表現をしても良かった。

では次は、アンサンブルについて、周囲の人間達に少々違和感を覚えた。周りに蠢くアンサンブルは、はたして何を表現していたのだろうか。あくまで私の見解だが、あれは奴隷、もしくは娼婦(陰間)ではないだろうかと思う。その上で、麻薬などを使用しているとも考えられる。そういった人々の表現に舞踏的な手法を用いた事に対する違和感が生じ、結果として浮いて見えていたように思えた。

最後に、「人魚」についての疑問である。演出家は「人魚」という要素をどう解釈したのだろうか。それを是非とも聞いてみたいと思った。

 

P.S 講評にて言及のあった照明の件。僕はあれで良いと思いました。

 

配信二日目(五日目)

『ASHITA』

 これをアングラ感の上澄みと言わずして何と言おうか。この作品にはこれと言って感想は無かった。強いて言うなら、「天文学」「哲学」「科学」“的”な話を、押韻とテンポ感で、何とかした作品だったという事くらい。これは感想ではなく皮肉に聞こえそうだが。

 

『落花』

 私はこの作品を一番評価した。それは一人で作・演出・出演をやってのけたパッション以上に、彼女の繊細で緻密な技巧の数々に伸び代を私は見ていたからである。まず、この作品は「少女観」の上に成り立っていると思われた。この少女観とは、女性が“少女”と定義される時間のみに存在する若い感性の様なものと考えて欲しい。それは本来薄らいで消えゆき、いつしか忘れてしまう物だ。だが、この作品にはそれが存在した。

 この作品の導入で、彼女の発語が静かで訥々としたものから、温かでなだらかな物へと変化する。それは作品の始まりで丁寧に観客を世界観へと招き入れ、語り部分において、彼女の持つ繊細な世界観がイメージとして伝わってきた。その上で、舞台の世界観づくりも非常に効果的だったと思う。正四面に区切られた白の空間は、彼女の全世界を暗示し、小さな自身の内面を描き出して見えた。この世界から隔絶された少女の全世界こそ、作品の中に見た“少女観”の礎だったのかもしれない。こうして物語の幕は開き、少女は私達に語り掛けてくる。それは、彼女の記憶について、彼女が確かに積み重ね、そして失った幸せの記憶についてだ。この作品にて彼女が追憶した幸せはこの世に一つしか無いように見えて、ありふれている物で、その実よく失ってしまう物だった。それを逸る事も無く、弛むこともなく、良い緩急の配分で紡がれる言葉の中で、少女の時分大切にしていた宝物かのように煌めいた思い出が描き出されていた。これは演者の等身大の芝居があった上で成り立っているもので、誇張などは一切感じられなかったし、この演技の質感があった事で、現実と精神世界みたいな物の対比構造も諄く感じなかった。この作りにより、小さな自身の追憶に、大衆が心を動かす感動が生まれていたように感じた。

 そうした時に、気になった点もいくつかある。一つは転調の時に役者が仕切りなおすが如く回る事だ。照明が変化すれば、調子が変わる事は観客も察する。その上で態々場面が変化したことを役者が表現しなくても良いと思った。もう一つは、「失う」ということばのニュアンスだ。記憶に関する「失う」には、忘却、喪失、消失の三つのニュアンスを想像することができる。こうした時、あの繊細さの中でこのブレは大きく感じてしまう。仮に忘却なら、その記憶の輪郭や雰囲気を覚えているだろうし、喪失ならばそこに在った形跡も残り、消失したのなら、過去の感情は混じらない。こういったブレが作品の没入感の中に少し不純物として見えてしまった。

 最後に、終演からハケるまでのあのスピード感が私は好きだった。世界観だけが舞台上に取り残され、ふよふよと漂って名残りを見せていたからだ。

 

『つながりからの研究』

 作品が始まって、役者が登場してから口を開くまでの間がすごく好きだった。あの静寂の中でいつの間にか世界に足を踏み入れてしまってたんだと思う。そうして紡がれる言葉も等身大の言葉。飾り立てられる事も、雑味が出る事もない言葉には日常を煮詰めた様な非日常を感じた。これを私はサミュエル・ベケットの作品に似た不条理に感じてしまった。彼らは確かにこの世界のどこかに存在するのに、何故かそれを認識できずにいる居心地の悪さを私は感じていた。ただ時々、その等身大の言葉の中から、胸に刺さる言葉が飛んできた。それは言葉の重みというよりは、重大な失念を思い出すような気持ちに近かった。劇中で彼らの叫びがラップになる瞬間は滑稽に見えたが、その実、本当に嗤う事は出来ぬ内容だったと思う。この不器用な隣人たちが見せる友情劇とそれを取り巻く環境、果ては現実世界の環境までも取り込んで、この世界が現実であると何度も確認させられた。この不完全な人間を愛することで、自分の不完全さもどこか許せるようなそんな作品だった。

この作品の「吃音」「歩く事」「電車」といった要素がそれぞれどう比喩表現できるだろうかと妄想をしながら見ても、面白かったに違いない。そして、最後に一瞬見せた摺り足の哀愁が、今も忘れられないでいる。

 

配信三日目(六日目)

『シタイ』

 舞台設定がシンプルな作品だった為に、演者の技量が極端に目についてしまった作品で、このシチュエーションならもっと練り込むべき演出があったと思う。例えば、年齢表現は誇張したやり方をするとシリアスに不向きだったり、【シタイ】という言葉が重要なかかり言葉だからと露骨に粒立ててしまっていたり、舞台において異質の存在である解剖医などの癖のあるキャラがいる事によって他のキャラクターが浮き立たなくなっていたり、少しステレオタイプに感じてしまった。ただ、その上で取り組む姿勢は評価したいと思った。演劇に真摯に向き合ったという事が伝わる作品作りを続けて欲しい。

 

『線路の間の花々は旅の迷い風に揺れて』

これについては正直、コメントに迷うが・・・

でも、書かないのも、それはそれであとくされが悪いので、思った事だけでも書こうと思う。

まず、導入における唐突感の連続に、呆気に取られて、いつの間にか始まっていた為、その段階でかなり置いてけぼりを食らっていた。

次に、MCの雰囲気に、戸惑ってしまい、その流れで始まった音楽祭に頭が追い付かなくなった。

あと、二曲目の後半あたりからのガチャガチャ感に一層混乱をしてしまった。とりあえず、もう少し筋道が立って状態だったら、少しは分ったかもしれないかな。

 

『素敵な部屋』

 この作品は、星新一の言うところの「SF」って奴だ。つまりは少し不思議な話だったのだが、この物語の構造は面白いと思った。最終的には夢で終わるこの話だったが、その中に盛り込まれた話は、決して夢オチに霞むような物でもなかった。だからこそ、演技力が必要とされる作品でもあったと思う。女性の発声が少々高く出ていて、上擦っていた印象で、体幹が原因なのか少し揺れていた。全体的に会話が上滑りしていて、内容を追うのに聞き耳を立てる必要があったので、環境音との共生は難しかったと思う。外の視点がより増えたら、作品の質が上がったんじゃないかなと思う。