憂暮れのムラサキ

夜にポツリと日々のつらつらを書き綴る村崎の戯言。全部あくまで個人の見解。

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誰が演劇を殺したのか。

貴方の大事な、大事な演劇は死にました。

さて、今日もセンセーショナルなタイトルで目を引いてしまい申し訳ありません。

改めまして、幻創pocket主宰であり、演劇を難しく考える人ムラサキです。

 

私に語る事ができるのは、やはり演劇の事だけですね…w

 

多趣味というか、無趣味というか幅広く浅い興味を持つ私には「演劇」という浅く広いのに、どこかディープなこの世界が性に合っているように思えます。どこを掘っててもその行き着く先は全て一つに収束する、それがいいんですよね。極めきれない物に魅力を感じてしまうこの気持ち、分かっていただけますか?

 

と、前置きが長くなりましたが本日は、

演劇を殺す3の要因と、その考察について

 

考察と銘打ったもののコレは他の誰かの意見ではなく、私発信の考察なのでどなたかが取り上げてくれないと始まらないんですよね。|д゚)チラッ、チラチラッ

 

まあ、それはさておき本題に入りましょうか。

私が愛してやまない演劇という世界は、実は一部焦土と化しています。その焦土の中にあるのが所謂“小劇場“と呼ばれる部分なんですが、こんな事言ってたらまた怒られちゃいますかね。私が演劇を志し始めた頃には、すでに小劇場演劇は下降の真っ只中にありました。演劇をする人間への視線は冷ややかで、道楽やお遊びの類いだと後ろ指を指されてばかりでした。それもその筈、実際に稼いでいる劇団があったとしてもその陰には生々流転の有象無象が食いっぱぐれて消えて行っていたのですから。そう言ったものに対する世間の風当たりは冷たくなって当然だったでしょう。しかし、その中に居ながらにして、隣の芝を焼き払う如き淘汰も行われていました。つまりは方向性の違いで衝突するバンドマンさながらの事を団体単位で行っていたりしたわけです。

 

これは、衰退するのが火を見るより明らかかもしれません。私も長い時間をその中で過ごし、毒されていた時期もありました。それを脱したのもここ2.3年の事で、それまでは自身の作品を守るためには、他者より優れていなければ・・・なんて、在りもしない批判に怯え、目に見えるもの全て比較してしまっていたと思います。そんな乏しい状態もいつしか吹っ切れ、自由に表現をすることで薄れていく中で私達が乗っていたのはただの小さな一つの船であると理解しました。理解した頃には、タイタニックよろしく沈みだしていたって話なんですが・・・。

こうしたプロセスの中で何度も漂流体験をし、その度に思うことがありました。

 

…演劇は今、死んでいるのではないか?

 

いつしか、演劇をしている誰もが、死体の上で踊る滑稽な人間にさえ思えてくるほどに私の心はその言葉に支配され始めました。長い歴史の中で一度たりとも中身を改められず、闇の中にずっと隠されていた事実があるんじゃないだろうか、そんな想いが私の頭を拗らせ続けました。これが演劇界におけるシュレーディンガーの猫の様な永遠の問答として長らく私の脳内で首をもたげ始めたのです。

そこで、私の思考は「演劇は誰によって殺されたんだ?」という疑問に行き着きます。この疑問が分かれば、演劇は息を吹き返すのかもしれない。そう思った私は、この考察を開始しました。

 

私が立てた仮説は三つ

  1. 演劇を殺したのは、当事者である。
  2. 演劇を殺したのは、観衆である。
  3. 演劇を殺したのは、政治である。

諸々はこのいずれかに帰着すると考えました。

以下では、その一つ一つを解説していこうと思います。

1.演劇を殺したのは、当事者である。

これが、一番最初に考えられる要因でしょう。演劇を執り行う人間達の能力的な面や体制などの面、そして興行師と言われる人間の減少、不況の中での諦め…etc.

原因は様々に考えられますが、どれも改善無しには演劇復興などありえませんよね。

その上で、考えたいのは当事者という枠組みの中に誰が入っているのかという事です。当事者とは、主宰者の事でしょうか演劇は集団芸術と言われる反面、たった一人の人間が発起する事ができます。それは興行師然り、脚本家然り、演出家、役者、出資者等々どんな人でも人を集めて始めてしまえるのが演劇です。

 

では、その責任が波紋を作り出した一石に集約されているのですか?

 

だとすれば、生死を司っている立場の人間はそれ相応の権利を持っているでしょうか。これはこと小劇場に限って、答えはNOではないでしょうか。大きな劇団や資金を下支えする企業や事務所が付いている物は、きちんとした体制を維持でき、それによる序列や地位も約束されるでしょう。しかし、そうでなければ多くの場合は同列に扱われるか、他者を尊重する立場にいる事が多いでしょう。これはあくまで個人的な見解ですが、心当たりある方が殆どではないですか?

 

では、責任はどこへ行くのでしょう。

 

これは集団におけるジレンマなのですが、その責任はどこかにありながらどこにも無いと言えるでしょう。転嫁し合った結果どこにも行きつかずに最終爆発する瞬間に持っていた者がその槍玉にあがる、と言った所が真理なのではないでしょうか。

この様にして、責任が当人達の上をたらい回しにされる事になった元凶はそもそも価値創造が上手くいっていない事に他ならないのです。つまり、この仮説の終着点は、先人達から脈々と続く演劇の歴史の中で、誰も道筋を築くなり、虎の巻を記してこなかったという問題に行き当たり、結果的に当人が演劇を徐々に腐らせ、殺してしまったという事になります。

 

2.演劇を殺したのは、観衆である。

次に演劇を殺したのは観衆であるという仮説ですが、これについて観客ではなく観衆と書きました。理由としては来場者(お客様)に限らない事を指し示したかったからです。多くの論評は観客の練度が話題に挙げられますが、そもそも総数の少ない観客に練度を求めるのは如何な物かという個人的な気持ちがあり、もっと外へと枠組みを広げ演劇を行なっていない側全てを指すことを意図して書きました。

 

私達は一所懸命に演劇を執り行っている前提になってしまいますが、がむしゃらに声をあげても、それを聴く人間が居なくては演劇は成立しません。現に演劇を志す人口は、減る事なく、また劇団や興行も絶えず続きはしていて、供給は過多だと言えるでしょう。しかし、観客席を見ると見知った顔が多くなり、空席も目立つといった具合に過疎化の一途を辿っています。現状人を多く呼ぶことができる役者が重宝されるのは、この点が大きいのではないですかね。

 

ここで勘違いして欲しくないのは人数を集める事について多い少ないではなく、この場合、何度同じ演目を見てくれる人が居るかの部分だという事です。

 

・・・ちょっと分かり難いか。

 

このブログの冒頭にも書いた、後ろ指を指される環境の中でそれでも見に来てくださる観客の方はいます。その方達が演劇を殺しているなんて言いたくはないですが、実際に演劇を見ている方々が、見ていない方々に対して何をしているでしょう。何もしてないのか、或いは布教活動をしているのか、それともマウントを取っているんでしょうか。現状その全ては神のみぞ知るといった感じですが、私達が提供する物を同業者やそれ以外の多くの方が見に来てくれることにより、私達は飯にありつき、暖かな家でぐっすり眠る事が出来ているわけですが、この母数が少なくなれば自ずとその界隈は衰退を始める事になるでしょう。事実、演劇の芸術的な側面は今や不毛地帯になり、多くは助成のもとに成り立っています。それも限られた数だけでそれ以外は・・・もう。言わずともわかりますねw

 

こうした状況の中、劇場の外を行き交う大多数の人が私達のやっている事に、イマイチぴんと来てない現状が浮き彫りになりました。私達はカルトやテロリストと並べられる事さえあって、その実内容はとてもメルヘンだったり、近隣から迷惑がられて苦情を言われる中、その人が日々抱える苦悩を描き出す作品だったりして、こういった開演時間に往来を行き交っている人々が、私達を穿った見方で殺してしまうのかもしれません。

 

だからこそ、観衆が今の演劇の死をより一層深く暗い物にするのです。

 

3.演劇を殺したのは、政治である。

最後の仮説は、より大きな問題になるでしょう。

演劇の歴史は、批判と反発の歴史と言っても間違いはないぐらい、政治や時代と常に争いを続けてきました。王政の陰には喜劇、学生運動の裏にはアングラ、そして何より、今の世の中に現代劇がその毛色を濃くついでいます。

 

演劇とは常々、私達を取り巻く不条理に対して牙を剥き、政治批判や時代を切ってきました。それのツケは、かなり大きくなって現代の私達にしわ寄せとなって帰ってきました。そもそも国の制度として、芸術に対する門戸の狭さが憂いとなる中で、演劇は更に狭き門になっています。

 

もはや、職として国は認めちゃくれないのかもしれませんが、私達はその狭い助成の席を争って、申請を我先にと行っているんですね。それでも、国が認めてくれるのは、安全な物語だけ。牙を剥く作品には、びた一文も払われる事はありません。こうした制度の欠落により、演劇の土壌自体が死んでいく事になれば、自ずと根を深く張れていないものは死んでいくことになります。

 

至極当然の結果ですが、私達を救う制度は1つたりともないのが現状で、私達よりも随分前から演劇は生きていける稼ぎも、支援もなく見殺しにされてしまったのです。

 

 

 

こうして、演劇は死んでしまいました。

だがしかし、今も闇の奥底で栄華の時代を生きていると信じられながら、その暗がりを暴こうかと言う者もなく、演劇はこれからも続くのです。

 

さあ、演劇は誰に殺されたのでしょうか。

果たして、その答えは出るのでしょうか。

 

それは、何れまた。