演劇と情報メディア(再掲)
皆様こんにちは、如何お過ごしでしたでしょうか。村崎です。
昨日は、更新サボっちゃいました。
なので、今日は割としっかりした事を綴っていこうかと思います。
さて、今回は
演劇がメディアに遅れを取りつつある現代
について…
演劇を、思想装置と考える人々がいる。こういう事を考える者は大抵が時代錯誤と罵られていたりするもので、多くの場合その内容は風刺や社会批判である。
これが有効であり、人々のエンターテイメントとしての下世話なコンテンツだった時代があった。それを小劇場ブームと呼んでた気もするが、所詮流行りの類である事には変わりなかった。
当時、爆発的に広がり、熱狂的なファンによって盛り上がった小劇場演劇は、情報メディアを出し抜くように社会を皮肉り、時代に斜に切り込んでいった。
しかし、それも今や昔の話だ。
情報メディアがネットワークを味方につけた事で事態は急転直下、天地を返す如く変わった。演劇が、古からの"伝統"を重んじる余りにニュースや新聞は愚か、週刊誌のゴシップよりも二手も三手も遅れをとってしまう事となったのだ。
演劇が社会を皮肉る事においてのスピード感と勘は、何者をも追いつかせない程の気概にこそ価値を生むと思っていたのに、今や時代や世相を切ると息巻く作品を見ても、ニュースや週刊誌の後手をとったものから、猫パンチ宜しく弱々しく世間を批判したもの、何番煎じかの評論等々、およそ見るに堪えないコンテンツになっていたりするのだから、嘲笑っても居られない。
時代を見つめる目も、それを下支えしていた知識も哲学もない。勉強などクソ喰らえなどと言わんばかりのヤンキー演劇を、これからどれ程見れば良いのだろうかと飽き飽きする事もあった。
だから、今一度よく考え、神経を研ぎ澄まし、俗な世間と歪んだ社会と醜い世界を然と凝視せよ。明らかに頭が足りないなら、遅くはない学習するんだ。そして、堂々真っ向から時代に斬り込んで行こうじゃないか。
と、まあ、ここまで言っておいても突っぱねるのが今の演劇人である。心に刻む者は刻めばいいし、跳ね除けるものは我道を究ればいい。
これは、あくまで個人的見解で弄れた私の持論でしかないのだから。
では、また。