憂暮れのムラサキ

夜にポツリと日々のつらつらを書き綴る村崎の戯言。全部あくまで個人の見解。

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現状、ニート≧フリーター。ゆくゆくは…(再掲)

今日は、少しだけ自分の現状について赤裸々に語ることにする。

フリーターが夢を追わなくなったら、何なのか。

 

僕は、駆け出しの劇団主宰の傍ら、フリーランスで脚本と演出を主とした活動をしている。
現在は、残念ながらお仕事のご依頼が途切れず…とはいかず、自身の活動のために書き下ろしの台本を書き、演出をつけるのが専らである。僕がコネクションと言ったものに関して慎重派で消極的な事も災いして、作家活動における信頼をどこにも築けていないのが原因なのかもしれない。
ただ、そんな状況では無一文になってしまうから、生きるためにと全く関係のない職種のアルバイトをしていたりした。もちろん、興行の収入が団員の生活を賄えるようになるのは、相当の努力と結果を出し続ける必要があり、そこにすぐ到れるとは思っていないが。ただ、現状の芸術活動に対するネガティブイメージと、軽視に晒され心折れるものが多いのも経験上よく知っているのだ。ただ…

「それでも、生きねばならない」

そういって、夢を辞退するもの。あるいは趣味の程度に押し込めてしまうもの。
創作活動を優先して困窮する芸術家たちが、結局人生の多くの時間をアルバイトに使う事になり、大成することもなくフェードアウトしていく。

僕は両親の応援で少しだけ金銭面で助力を得られたことがあり、大学在学中には、創作活動や演劇の勉強にほとんどの時間を使わせてもらえたが、大学を卒業してからは自立できるほどの稼ぎを作り出せず、親のスネをかじるニート同然に成り下がってしまった。

というのも、家賃や奨学金の返済を全て支払える稼ぎはなく、生活の中での必要経費を、日々の中でこせこせと支払い、なんとか並以下のギリギリな生活をしながら、創作の時間に割いている。

本当にそれで良いのか。そんな事はもうわからなくなっている。
就職をすることをはなから考えず、フリーランスになることを決め、現状どこでもその関係の仕事はしていない。

四半世紀生きて、世間から「もう、夢を見るな」とでも言われているような心持ちだった。
僕たちは演劇という場所に身をおいているのに、演劇はお金にならないというレッテルを誰も打開しようとはしないでいる。成功者ですら足元のグラグラしている業界で、後続がそれを恨めしく見つめ控えている。それで、演劇が衰退していっても良いんだろうか?

お金にがめつい。と、あるアンケートで見かけたことがある。
僕はそれに対して「当たり前だろ」と言いたくなった。確かに人々の目が肥え、映画、ドラマと肩を並べたクオリティーで無ければ文句を言われる時代なのだから、その言葉は真っ当なのかもしれない。しかし、それは暗に「お金をもっと掛けていなければ、作品は評価に値しない」なんて事を口にしているのも同じじゃなかろうか。

映画には膨大な制作費が費やされている。それを獲得するために奔走する人間の数も両手では足りないかもしれない。ドラマだってそうだ、ワンクールの視聴率が広告宣伝費などにダイレクトに響くのだから、それなりの資金とそれなりの時間がかかっている。しかも、世に出ればそれは波及的に宣伝効果が巻き起こり、二次的、三次的な収入ができる仕組みなのだ。

そこが演劇には大きなハードルになる。
大劇場、商業といった演劇はそれなりに大きなバックがあり、それによる資金を元手に活動をすることができる。だが、中小劇団はそのバックがない上に、慢性的に時間を他の事に奪われている。それでも、それを本業に頑張っているものが更に少数いて、そいつらはニート、フリーターといった不本意な称号を与えられて、ジリ貧で生きている。

そんな者たちが、必死に捻り出したお金で小劇場は成り立っている。
正直、脚本一本書くだけでも命削る思いなのに、それをしながら仕事もする事で、日々血反吐を吐きそうな状態なのだ。そして、演出家は日々の時間を思考する時間に割かねばならない。そういった時間を経て生まれる作品があることを、できれば多くの人に知ってもらいたい。

長くなったが、僕らは命の時間を演劇に注いで、そうやって一つ一つの作品を作っている。
そこにかける時間を、納得の行くものにしたいために生活も削っている。
正直、ジリ貧どころではないのだ。それでも、演劇をしたいと言って頑張っている若者に世間は冷たい。アルバイトでは冷遇されることもある。結果として作品が残ったりすれば話は変わるのかもしれないが、僕らの芸術はふっと現れて、跡形もなく消えてしまうことが大きな魅力である以上。再演はすれど、形としてなにか残すことはできないのである。

その価値に多くの人が評価を持てることを祈って…

今日はこのあたりにします。
では、また。