憂暮れのムラサキ

夜にポツリと日々のつらつらを書き綴る村崎の戯言。全部あくまで個人の見解。

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じんわりと溶けて、染み入るような気持ちで。(再掲)

皆様、体調はいかがですか?
僕は絶賛体調が急降下していますよ←
急な雨で頭が割れそうなほどの痛みに襲われながら
繊細でゲキ弱な身体と精神を引こずって、僕は今日も生きています。

そんな今日は、少しだけ演劇やってる人っぽく話をしてみよっかな。

”僕たちは、演劇をやっています”

そんな一文から始まる演劇があってもいいなと思う。

この「演劇」って言葉、すごく曖昧ですよね…。

やっている僕らだって、同じ演劇って言葉が表現することの振れ幅に
惑わされますからね…(汗)
この演劇って言葉は、人生とも言いかえられそうなほどに多様性を持っているので、これは演劇じゃない、なんてことはかんたんには言えないもので。
でも、その違いを巡ってギクシャクしたり、同じ命題でも答えの導き方で有り様は180度…なんてことも沢山見かけます。各々の人生観が反映されている作品には、その人の歩みが確実に見えてくるわけですね。

こうして、演劇という言葉の多様性で衝突することもしばしば、その棲み分け方がはっきりできていないのも問題なのですが、それ以上に演劇の練度といいますか。真贋の線引きが難しいという点も一つ大きな問題なのではないでしょうか。

演劇の保証人はどこにも居ない?

演劇の真贋が曖昧になる理由として、アマチュアとプロの境が明確にはないために名乗った者勝ちな部分があり、演劇を始めることに対する敷居の低さも重なって、専門的知識は無くとも、演劇の公演を興行として行うことは可能だという点が挙げられる。このように、演劇人って言うのは簡単だけど、演劇を行う上で守るべきだという規約や、虎の巻と言ったものはないので、下積みが長かろうと、ぽっと出であろうと無関係に作品を世の中に排出できてしまう。

だからこそ、発信をしない閉鎖的な小劇場演劇では、真贋、もとい面白いかどうかの判断というのは、正直…かなり難しい。

そして、役者はフットワークが軽いのに、劇団同士は大概絡まない。
横の繋がりという奴も、大抵が身内の範疇を超えず、一見新鮮だった繋がりも長く一新されず内輪感が生まれてしまう。劇評を書いても専門的な後ろ盾が存在しない以上、ただのイチャモンなのか、それとも専門的見解なのかは計り知れないので、世間の声を頼りにすることもできない。
もちろん、多くの観客の声を獲得できていれば、相対的な判断ができるが小劇場という規模のみで考えれば客席が40用意できれば万々歳で、その中で何名が感想を共有してくれるだろう、それが全3ステージだとして、前日の演目の評判を聞きつけ翌日行動してくれる方が何人居るか…。考えを巡らせても、事前に来場を確約することができない以上、新規のお客さんを引き込んで公演日の予定を開けておいてもらう必要がある。

では、その一作品にとらわれず、根幹的な部分の自身や団体の宣伝の場を設けてみてはどうだろうか?

交流会や、アフタートークなどのハードルをもっと下げ、発言に関しても中立的な立場の人間を設けてもっと盛んに行えば良いと思う。
そうすることで演劇が観客の身近で、参画しやすいコンテンツだと思ってもらえるんじゃないだろうか。
そうした普段の製作過程や、思考する姿を世間にオープンにしていくことで製作者を知ってもらい、団体を知ってもらい、果ては作り出す世界を共に待ち望んでもらえるような関係を作り上げることが必要なのではないかと思った。

演劇は日常の中から出てきて、なんだか遠くへ行ってしまったように感じられている。
だから、近くに居るよって、ここに居るからねって言わなくちゃいけないと思う。
観客の日々にじんわり溶けて、染み入るような気持ちで発信をしなくちゃいけないなぁ…

と言うわけで、今日はこの辺で。

では、また。