憂暮れのムラサキ

夜にポツリと日々のつらつらを書き綴る村崎の戯言。全部あくまで個人の見解。

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空白のように、生きてきた。(再掲)

どうも、こんにちは。

こうしてほぼ毎日綴っていれば、少なからず毎記事ご覧になって頂けている方も

居るのでしょうか・・・?

 

昨日の記事は自戒も含めた宣伝活動の話をしましたが

今回はその中でも挙げた演劇観みたいなものをお話しようと思います。

 

演劇をしていて思うこと。

 

演劇をしているっていう方が身近にいるという人が土地柄多い京都ですが、それでも演劇をしている事を物珍しく思われるのは結構あります。

演劇と言っても、裾野も広いので大衆演劇商業演劇、そして僕らが盛りたてんとしている小劇場演劇。様々な形態の演劇があって、それをお客さん方は一緒くたにして「演劇」と括ってらっしゃいます。

 

前回と言ってることが被ってるじゃん。と思ったでしょ?

 

でも実際は、昨日は関係者、内部の人間で演劇って物を語るときの話で、今日のは、お客さん側のお話なんです・・・。

そう、内外共に演劇っていっても広義を示しすぎて合流地点を見いだせないって事になるんですね。これを大阪では、梅田現象と言ったら笑って頂けましたが…。

皆さんはどうですか?

 

まあカテゴリーの話なので、映画が好き、ドラマが好きみたいなのと同じなんですが、こんな風に言っても相手は「そうなんだ、どんなのが好きなの?」と口にしてくれることでしょう。そうすれば小さな区分で話ができる。ホラー映画が好きとか、恋愛ドラマが好きとかね。それが演劇だとバラけちゃってるんですよ

 

試しに僕が思う限りの演劇の区分を出してみようと思います。

 

喜劇・悲劇・不条理演劇・コンテンポラリー・高校演劇・エンターテイメント

アンダーグラウンド・ハードコア・時代劇…etc.

 

まだあるんでしょうが、こんなものでしょうか?

もっと詳細な区分もありますし、喜劇・悲劇辺りはまだまだ広義ですよね。

 

だから、演劇は後発的な区分では語れない部分があるんです。

映画然り、ドラマ然り、ジャンルが分かれば選べますし、原作があれば少々のことでは内容は変わらないはずですよね?

 

しかし演劇には、先発的なメッセージがある場合があります。

自分の身を置く場所なだけあって、小劇場メインな話になってしまうのですが

小劇場などの若手が執筆して演出する作品には、メッセージが含まれていて、それが物語の根幹に大きく存在をしています。

ですので、小劇場の演劇作品には多かれ少なかれメッセージ性があるんですが…

内容に大きく絡む性質からか、ネタバレを恐れて隠匿されることがほとんどです。

そうなると、大半の宣伝の常套句が…

 

見れば分かる・内容が濃い・俺は、私はこの作品好き

 

みたいになるんですよねw

分かるけど、本当にそう言うしか無いのかな…

 

ここだけの話。内情を言うと台本が書き上がってないからの場合がほとんどなんですがね。(ボソッ

 

まあ、こんな長い前置きは置いておいて

僕はメッセージについてここに赤裸々に?綴っていこうかと思います。

 

「人間の謳歌と社会俯瞰」という演劇観

 

僕の演劇観は、見て字のとおりなんですが…。

だから何やねん。って、なっちゃいますよね。

 

演劇ってものに関して、僕は様々なものを教わり、少なからず観劇をしたりもしましたが、何気なしに目に入った演劇の本でその今までの体験以上の”しっくり感”を得てしまったんですね。その文章というのが…

 

演劇の最終的な命題は「人間」である。

 

というものなんです。

これって本当にそうだなって思うんです。

人間が演劇をしてるわけじゃないですか、今のところは。つまりは演劇をしている者は絶対「人間」というテーマにぶつかる訳ですよ。じゃあ、一番の命題というのは人間に他ならないわけで、結局は人間を表現しているんじゃないかなと。

 

この本を古書堂みたいなところの軒先で、小一時間読みふけってしまった僕は、この瞬間に、人間の素体を活かし讃えようと決めました。

 

僕の作品をまだ多くの人が観ていない状況なので、僕の執筆作品を折りを見て、投稿しようかとも思っていますので、気になった方は読んでいただければ良いのですが、僕の描く物語の人物は大抵、穢れなく純真な少年少女か、汚濁に塗れ煤けた青年の姿です。もちろん中年や老年も登場しますが、中年や老年が主人公で描けるほどの人生経験が僕にはないと思ってしまうので、書いたことはありません。

 

そして、そこに僕の思想が共存して行くことでストーリーが生まれます。

 

それが後半部分、社会俯瞰という考え方です。僕たちは日常を必死に生きて疲弊しその毎日を通り過ぎる車窓の景色のごとく傍観しています。そんな事にいちいち気を止めていたら精神がもたない程に切迫してるんですね。

 

だから、僕たちは世間や社会に対して、常に盲目的だと考えているんです。

僕たちには世間の問題や社会の情勢など、自身に牙を剥かない限り明日の業務以上に重要なことではないのです。明日生きていけるかもわからない人間に未来を語ることが難しいように、明日以降も普通に生きているという根拠のない自信を持っている人間に、「死」や「自殺」という問題が想像もつかないのも当たり前です。

 

人間は愚かで穢い生き物へとなっていく、それを善とも悪とも私達には言えないしそのような事に、僕たちは興味を示して生きていないのに、それに直面したときは一等心を悩ませてしまったり、それを恥じて他人を貶めたり、苦しめたりする。

僕らの問題は常に僕らの目には止まらないところで生まれて、僕らの目の前に大きな怪物のようになってから、やってきてしまう。

 

だから、せめて僕の演劇では人間のむき出しの穢い部分と愚かさに目を背けず、目の前の小さな問題について考えてほしい、傷ついても、心がかき回されても目を離さず、そんな時間にしてほしい。という想いで作品を作っています。

 

もちろん、作品ごとに扱う問題は変わりますし、その時に表現したいことも様々に成ります。ただ、根幹にはいつもこの考えがあります。

 

人間の美醜も含めた「穢れた姿」を目の当たりにした時、それぞれが本当に立ち向かうべき問題が浮き彫りになる。と。

 

今日は、沢山書き殴ってしまいましたが、この辺で終わります。

 

では、また。